2017年12月23日土曜日

ベタニア村

 ベタニア村はエルサレムの東方、神殿を見下ろす橄欖(オリーブ)山からは東南の方角にある小さな山村である。

 11節の書き出しです。イエスが十字架を背負ってゴルゴタへ向うまえに、作者はシーンをベタニアに移します。ベタニア村には「マルタの家」があります。この家が、イエスたちがエルサレムにいる間泊っていた「宿舎」です。

 ところでベタニアは聖書で有名なとマルタとマリヤの姉妹が住んでいるところです(作者は彼女たちが住んでいる場所を「宿舎」として描いています)。イエスのお世話をいっしょうけんめいにこなしているマルタが、なんにも手伝わずにイエスの話に聞き入っているマリアを不満に思って、イエスに告げ口すると、イエスがマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」とたしなめたあと、「しかし、必要なことはただ一つだけです」と諭す有名な場面があります。
 牧師さんは、ここで信仰第一って強調するところですけど、でもわたしはマルタがかわいそうな気がします。
 ヨハネの福音書ではラザロは姉妹の兄弟になってます。(11:1)あのドラマチックな復活で有名な人ですね。



2017年12月22日金曜日

いまはまだその時ではない


ペトロはみんながマリアの家を出たのを見届けた後、マリアとマルコにお礼を言います。するとマルコが自分もついていきたいと申し出ます。でもペトロは「いまはまだその時ではない」と断わります。若いマルコを巻き添えにしたくないというペトロの気づかいかもしれません。ペトロは微笑みを返して別れをつげると、あのアントニアの城塞の方角にむかって去ってゆくのです。

これで10節が終わります。

2017年12月17日日曜日

主よ

 みな急いでゴルゴタに向います。でも一緒になって行っては危険です。二人一組で出かけます。出かけるまえにペトロが祈ります。

主よ 師イエスの意志が貴方の意志であるように
その意志を成就させ給え
  主よ われらひとりひとりを護り給え
     艱難(かんなん)に耐え得る意志を与え給え
     われら、いかなるときも貴方により頼み
     貴方以外の神を拝さず
     兄弟姉妹ささえあい
     貴方の国の住人とさせ給え
  主よ ここに集うひとりひとりのうえに 
     貴方の祝福があらんことを

 教会でよく唱えた「主の祈り」と、礼拝の最後に牧師が唱える「祝祷」が合わさったような祈りです。でもこの緊迫したシーンではとても切実な思いが伝わってきます。

2017年12月12日火曜日

師の最期を見届けることだ

 さて前からのつづきです。ペトロは処刑されるのがイエスの望みだという理由をみんなに説明します。それは「人の子として「一粒の種」になるためだというのです。「人の子」も「一粒の種」も、すでにイエスから聞いたことがあるのですが、まさかそれが死ぬことだったなんて!しかも本当に処刑されようとしているんです。OMGです。
 でもペトロはふんばって最後まで説明します。一粒の種のたとえは、種がいつか成長するということ。「師が一粒の種なら、おれたちは何だ?」そう問いかけます。みんな事態が深刻なことにようやく気づきます。「おれたちにいまできることは何か」という問いにペトロは「師の最期を見届けることだ」とこたえます。つづきはまた。
 

2017年12月9日土曜日

処刑されるのは師の望みなのだ

 10節に入ります。
 ペトロが再びマルコの母が営む旅館にもどってきます。

先生のイエスがとんでもないことになっていることを知らない仲間の人たちは、まだ眠っています。イエスの妻のマリハムとラザロはベタニアにすでに帰ったところです。(ベタニアというのはイエスにしたがってガリラヤから出てきた人たちが泊っている宿舎があるところです。もう少しあとで、ベタニア村の説明がありますから、くわしいことはまたそのときね)
  ペトロがみんなを起こしてすぐに集まるように言います。
  みんなはイエスが逮捕されたうえに裁判にかけられ、おまけに処刑されると聞いて、びっくり!
  アンデレが「さっそく救い出しに行こう」と言うと、ペトロは引きとめます。そして重要な話を打ち明けるのです。「処刑されるのは師の望みなのだ」と。つづきはまた。

2017年12月8日金曜日

鶏の声


イエスの名前を呼んだあと、ペトロは膝を屈して泣きます。でもかれにはユダから託された使命があります。大勢の巡礼者たちが神殿をめざすのとは逆方向に、ペトロは神殿に背をむけて歩みはじめます。9節は、つぎのように締めくくられます。

ペトロは空を見上げた ――
  朝空に白雲がたなびいている。が、漁で鍛えたかれの目は、遠くに一点の黒雲があるのを見逃さなかった。かれは自分を奮い立たせるように神殿の階段を駆け降りると、仲間のもとに急いだ。その耳に、刻(とき)を告げる鶏の声が聴こえていた……
 
 聖書ではペトロが三度否認した後に聴こえてくる鶏の声が、小説ではここで聞えてきます。

2017年12月7日木曜日

師よ、師よ


神殿の外に押し出されたペトロは、まだ途方にくれています。そのペトロの目にうつった光景は…… 

 眼下に、昇ったばかりの朝陽をうけて白く輝くエルサレムの街が見える。その向うの丘陵に、いまは総督官邸となっているヘロデ宮殿が眩しく光っている。
 だが、ペトロの目にはそれも虚飾に満ちた光景でしかなかった。ペトロの心のなかに罪悪感がこみ上げて来た。かれは何度も「師よ、師よ」とつぶやいた。


  私たちが暮らしている都会の風景も、こんなふうに見えることがあるかもしれませんね。

2017年12月5日火曜日

頭の禿げた小男

 ぼうぜんと立ちつくすペトロに背後から声をかける人物があらわれます。「三十格好の、頭の禿げた小男」。誰だかわかりますか? その男がペトロに声をかけたあと、ペトロの腕をつかんで自分について来るように言います。ちょっと失礼して……

ちょうど神殿の開門の時刻だった。神殿の屋上から夜明けを告げる角笛(ショファル)の音が聴こえてきた……男は西門(コポニウス門)まで来ると、ペトロの背を突いて、かれを門外に押し出した。ペトロが振り返ると、男はくるりと背を向けて、何も言わずに去っていった。

この人、あのサウロです。ペトロとパウロの出会いが、こんなふうにさり気なく描かれているのがなかなかイイですね。
 
 

2017年12月3日日曜日

お前らが言いたいのはそれだけか

 さてイエスをガリラヤへ送ろうというピラトのアイデアも、祭司によって斥けられます。そのとき、それまで黙っていたイエスが「お前らが言いたいのはそれだけか。……お前らに乗っ取られたユダヤの、何と哀れなことよ」と言って、まわりを取り囲んだ人たちに向って「さっさと茶番を終わらせ、おれを吊るしたらどうだ」と叫びます。これに怒ったピラトは急に態度を硬化させて「この男を鞭打て」と命じます。祭司たちが用意した「公衆」がそれっとばかり一斉に「殺せ、殺せ」と煽ると、ピラトはもう手に負えないとばかり「おれの知ったことか」と責任を放棄してしまいます。そしてイエスをローマに対する反逆罪で死刑にすることを宣言してしまいます。刑の執行は正午に決まります。

鞭打たれて弱ったイエスの姿にペトロは身が裂かれるような思いをしています。そのペトロの心の内がつぎのように描かれます。

ペトロは、師が引きずられていくのを見ると、居ても立ってもいられず、直ぐにも躍り出たい衝動に駆られた……が、堪えなければならなかった。
 (いまそのようなことをすれば、すべてを台無しにしてしまう)
  師が耐えているのと同じに、ペトロもまた血を吐くほどの思いで耐えていたのである……

 三度も否認したペトロとだいぶちがうペトロが描かれています。
 
 


2017年11月28日火曜日

バラバ

 祭司たちの抵抗でイエスをヘロデ・アンティパスのところへ送ろうという提案をひっこめたヘロデですが、こんどは別のアイデアが浮かびます。ピラトは最初から祭司たちの要請には魂胆があることを見抜いています。神殿であばれまわったのがイエスでないことも知ってます。誰かといえば、あのバラバです。ピラトといえども本当の犯人でないイエスを犯罪人にすることはできません。そこでイエスを鞭打ち刑で処罰して、あとはガリラヤに送還しようと考えます。ガリラヤでふたたび領主のヘロデに処分を決めてもらえるかもしれないと考えたからです。
 ところでバラバといえば、聖書ではピラトが民衆にけしかけて「バラバかイエスか」って似者択一を迫るシーンが有名ですけど、この小説ではバラバのことは名前くらいで、あとはスル―されてます。ちなみにバラバにフォーカスしたのがその名前のまんま『バラバ』。これもわたしの好きな小説です。この時代のふんいきを知るのにもよいのでお勧めです。今日はこのくらいで。

2017年11月26日日曜日

ヘロデ・アンティパス


ピラトはここでちょっと頭に浮かんだアイデアを祭司たちに伝えます。それは、イエスをヘロデ・アンティパスのところへ送るというのです。

ところで、ここでちょっとブレイクしますけど、イエスはゲッセマネで逮捕されたあと、聖書では大祭司カイアファのところへ連れていかれ(ヨハネ福音書では先にカイアファの舅のアンナスの屋敷に連れて行かれます)、そこで裁判(予備裁判?)を受けたことになってます。でも小説では場所がいきなりサンヘドリン(神殿にあるユダヤの政府みたいな感じ)の法廷になってます。たしかにこのほうが分りやすくてすっきりしてます。

でもカイアファの屋敷で裁判が行なわれたのはなぜでしょう? それは過越し祭のような祭の前夜には開廷出来ないというような規制があったからからかもしれません。だから夜が明けてからサンヘドリンへ行ったのかも?(マルコ福音書151節)

とにかく作者が、イエスが連れていかれた先を大祭司の屋敷ではなく、サンヘドリンにしたのは、なにかわけがあるのかもしれません。どちらにしても裁判がこそこそと行なわれたことに違いはないのですが……

さてイエスをヘロデ・アンティパスのところへ送ろうとしたピラトですが、祭司たちの強い反対で撤回します。でもルカ福音書では、イエスはヘロデのところへ送られてます。(236節から12節)ヘロデの反応がおもしろいところですけど、作者は却下したみたいです。
 

2017年11月23日木曜日

お前はユダヤの王なのか?


 ピラトは祭司たちの要請には魂胆があることを鋭い目で見抜いています。さすがにモウキンですね。ピラトは神殿であばれまわったのがイエスでないことを知ってます。
 それに、ピラトは祭司たちの小細工(あのゲッセマネでのお芝居です)も見抜いています。ただイエスがガリラヤの出身であることだけが気がかりのようです。


 そこでピラトはイエスに「お前の罪状について、弁明する意思はあるか」と聞きます。イエスが黙っていると、横から祭司が「このガリラヤ人はユダヤの王を僭称する不届き者だ」と言って、ピラトに関心を向けさせようとします。そこでピラトはイエスに冗談めかしてたずねます。「お前はユダヤの王なのか?」と。ピラトはイエスをうつけ者だと思って軽くみているのです。

2017年11月21日火曜日

ピラト

 ピラトは祭司たちを自分の執務室に来るよう求めますが、祭司たちは異邦人(ユダヤ人以外の人たちのこと)との接触を避けるために、ピラトが出向いて来るように要求します。ピラトはピラトで、なんで自分から出迎えなきゃならないのって感じで、これを受け付けません。そこで祭司のひとりが釣り玉としてイエスがガリラヤ人であることを伝えます。するとそれに釣られるようにピラトが姿を現します。ピラトが反応したのは、ガリラヤという地域が「ローマにとって厄介な地域」だったからです。ピラトは作者によって、つぎのように描かれます。

 案の定、ピラトは祭司たちの前に現れた。かれは緊急時に備え、胸甲を身に着け、長靴(ちょうか)を履いていた。その風貌は狡猾そうな目と相俟って、ある種の猛禽を彷彿させた。

2017年11月20日月曜日

アントニア城塞

 いよいよ9節に入ります。舞台はピラトが詰めいているアントニア城塞です。そこは神殿にくっついていて、ユダヤにとってはありがたくない所でしょうけど、ローマの軍隊がここからエルサレムと神殿に目を光らせているんです。監視塔みたいなものなのでしょう。
 
 9節の導入の描写は時代背景がわかるように書かれていて、いろいろと教えられます。でもここでは割愛します。ぜひ小説よんでみてください。
 さてイエスは、アントニア城塞の中庭(舗床の庭)に連行されてきます。そこで祭司長がローマの兵隊に用件をつたえます。その間しばらくそこの情景が描写されます。ちょっと引用してみましょう。

 「舗床の庭」には未明の月影が、むらぬらと舗石を濡らしていた。中庭の要所々々には篝火が焚かれ、ぱちぱちと薪が爆ぜる音がした。中庭は厚い塁壁と四つの塔に囲まれていた。見上げると、各塔の上に歩哨が立ち、夜の監視に当っていた。……

 臨場感がありますね。月の光が「ぬらぬらと」舗石を濡らしているって、とても新鮮な表現でしょ。そしてカメラワークが、ぐっと塔の高いところへ回っていくのもいいですね。

 

2017年11月18日土曜日

不吉な予感


舞台はこれからユダヤ側の手をはなれてローマ側に移ります。
ペトロも場所を移動します。ちょっと失礼して……

 ペトロは「公衆」に混じって回廊をぬけ、境内の東側にある「ソロモンの回廊」を回っていった。回廊の列柱の間からエルサレムの町を見下ろすことができた。未明の月影が冴え冴えと町を照らしていた。だがペトロの目には町全体が蒼白く底光って、それが不吉な予感を漂わせているように見えた。
  

もう少しつづくんですけど、このくらいにしておきます。とても臨場感のある描写なんで、ぜひ小説でよんでみてください。
 

2017年11月17日金曜日

イエスの皮肉


裁判を見ていたペトロの感想で、ちょっと興味深いところがあります。まず引用してみます。

「ペトロは、目の前で祭司たちが愚かしい喜劇を演じるのを見ていた。だが師イエスが言った『神の筋書き』という言葉には得心のゆかぬものが残った。師イエスは神という言葉を日ごろ口にしたことがなかったからである。」

 あれほど祭司たちを驚かせた言葉なのに、ペトロは「そうだ」と反応しないで、かえって疑問を感じてるんです。作者はペトロの心の中もカッコで書いてます。

「(ひょっとするとそれは、祭司たちが戴く『神』の正体を白日の下に曝け出すための、師特有の皮肉であったのかもしれないが……)」

これってきっと、祭司たちが神を畏れない者たち、神の前で平気で偽りを行なう者たちであることを、イエスが曝露したってことではないかしら? イエスは神に対する不敬罪でさばかれるんですけど、ほんとうに神を敬っていないのはこの人たちです。ペトロはそのためにイエスが日ごろ口にしない神の名前を出しておどかしたんで、それで「先生の皮肉だったのかな」って考えたんじゃない?

じゃあ、イエスは神のことをどんなふうに考えていたんでしょう? 最後の晩餐の席でシモンが絡んだとき、イエスは「お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜してもみつかるまい」って、言ってましたね。そして「お前はここにいるではないか。神の心とはそういうものだ」と、謎めいたことを言ってました。わかりにくいけど、ちょっとわかるような気もします。でもこのへんで。

 

2017年11月12日日曜日

ペトロの否認


さて「公衆」に紛れて裁判の成り行きを見ていたペトロは、どうなっているんでしょう?

聖書では臆病者に描かれていますけど(あの三度の否認です)、小説では一度だけ否認する場面はありますけど、それは臆病だからじゃありません。自分がイエスの仲間だと名乗ったりしたら、計画が台無しになってしまうからです。ちょっと失礼して……


ペトロはその一部始終を見ていた。裁判の間中、できることなら自分が飛び出していって、師とともに裁かれたいと思った。だがそれはできなかった。その間ずっとペトロの耳許で聴こえていたのは「それでは事は成らぬのだ」というユダの言葉であった。この言葉によってペトロは辛うじて堪えていた。

聖書ではペトロはダメな弟子として描かれてますけど、小説ではまったく別の見方でペトロが(ユダも)描かれていて、それにキャラクターの動きがいろいろと絡んでいて、小説としてとても面白いんです。

2017年11月10日金曜日

神を畏れる者

 神殿側の者たちが仕組んだインチキ裁判の筋書きを、イエスは逆に「神の筋書き」と見たのです。
 作者はカイアファの内心をこう書いてます。

このときかれは内心、この裁判のうそ寒さに気づいたっかもしれなかった。かれもまた神を畏れる者であったとすれば……

https://cloutierpd2paschalmystery.weebly.com/arrest-and-trial-before-the-sanhedrin.html


でももう大祭司の仮面をかぶってしまったカイアファです。行くところまで行くしかありません。でもそれが「神の筋書き」なのかもしれません。ユダヤの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した話が旧約聖書にあります。そこでエジプトの王様は、なんどもユダヤの神によって「かたくな」にされました。まるで金縛りにあったみたいに。もう自分で自分をコントロールできないんです。

あとは雪崩をうつようにイエスの有罪が決定されます。そしてただちにイエスの身柄はローマ側に引き渡されるんです。イエスがローマに引き渡されるのは、あのゲッセマネが口実になって、ローマに対する反逆罪が成立したことになるからです。
 
 

2017年11月9日木曜日

神の筋書き

   でもカイアファはもとの仮面をかぶりなおして、訊問をつづけます。

「お前はメシアなのか?」
このとき、イエスはようやく口を開いて言った。
「なぜそのように訊くのだ。おれがメシアならどうだというのだ。おれが怖いのか。お前がほんとうに怖れているものは何だ?」

イエスに見透かされたカイアファは、内心の動揺を隠してイエスをどなりつけます。
でもイエスは皮肉な微笑を浮かべて答えます。

 「お前らはおれを筋書きどおりに抹殺したいのだろう」
  そう言うと、イエスは正面に居並ぶ裁判官たちひとりひとりを舐めるように見回した。
   それからまた口を開いた。
   「だが、お前たちの筋書きが、神の筋書きだとしたら、どういうことになるか?」

すごい発言です。つづきはまた。

2017年11月7日火曜日

大祭司カイアファ

 法廷にあの大祭司カイアファ(カヤパ)が登場します。カイアファはイエスをあざけったあと、罪状を書記に読むよう命じます。それが終わると、証言者の証言がつづきます。みなうその証言をします。それもそのはず、証言者たちはみなイエスに不利なことしか言わない人たちを呼んでいるからです。傍聴する人たちも、じつは祭司の奴隷たちですから、作者は「公衆」とカギカッコをつけています。でもカイアファにも少しは祭司の自覚があります。 
内心イエスの弁明を恐れていたカイアファは、イエスが無言であることに安堵しながら、一方でイエスが何も言わないのを不思議に思った。……

 さしずめ現代なら、無実の人を有罪にしようとしている裁判長の心境というところ。つづきはまた。

2017年11月6日月曜日

サンヘドリンの法廷

 8節に入ります。

エルサレムの天空に満月がかかっていた ――
  ユダヤの新年を祝福するように、月影が神殿の金色の屋根を照らしていた。家々では人々がまだ眠りを貪っている時刻であった。

過越し祭が始まります。

でもこの大切な祭日にイエスの裁判が開かれるんです。しかも違法な裁判です。
  裁判の場面を描いたこの節は、つぎの節と合わせて第1章の圧巻ともいえます。丁寧な描写で、読者を裁判の場面にいるかのように引き込んでくれます。
  
 やがてゲッセマネで逮捕されたイエスが法廷に連行されてきます。つづきはまた。



2017年11月5日日曜日

シモンよ、さらばだ

 このあと、祭司はしぶしぶイエスの言葉にしたがいます。それから……

 「シモンよ、さらばだ」とユダは言って、ペトロに接吻した。
     それからシモンは、もう一度イエスを見た。イエスが、うなずいた。」

 これはひょっとしたら作者のミスかもしれません。イエスをもう一度見たのは、シモン(ペトロ)ではなくて、ユダではないかな? きっとユダは名残おしかったんです。だからイエスの姿をしっかり目に焼き付けておきたかったんでは? それにイエスもちゃんとこたえてます。


 このあとは、ユダの心境がのこされた「手記」というかたちで紹介されます。
  長いのでちょっとだけ……
「……おれは『主よ、赦してくれ』と心の中で何度も叫んだ。そのとき『お前はなすべきことを果たしたのだ』という師の声が聴こえた。……たとえおれに裏切り者の汚名が着せられようと、それはおれの本望だ。おれは地面にぬかずき、接吻した。そうしてようやく立ち上がることができた。去りゆく師とペトロの後姿を見ながら思った。これで良かったのだと……」



2017年11月3日金曜日

剣を収めよ

 祭司の命令でイエスが連れていかれるとき、ユダが「待て」と言って、ペトロがついてゆくっていう約束を守らせようとします。ところが祭司はこれを無視します。
 ユダはカチンときて「何!」って叫ぶと、祭司についてきた警備兵が剣を抜いたんです。

が、つぎの瞬間、ユダの従者の一人が、背後から警備兵が腰に差した短剣を奪うや、それを祭司の喉元に突き付けた。一瞬の出来事であった。
 
ユダって、こういう手下を使うことができるんでしょう。でもそこにイエスが入ります。


するとイエスが「剣を収めよ」と、言った。
  それから祭司に向って、
  「おれは逃げはせぬ。だから約束は守れ」と、諭すように言った。

これって、有名な場面です。ペトロが剣で相手の耳を切り落とすっていうすごい場面。マタイ福音書ではイエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」って有名な言葉をいいます。
  でもこのあと、弟子たちはみんなイエスを残して逃げてしまうんです。
  ああなんてなさけない人たちでしょうって思うように書かれているわけ。
  でも小説の方は同じような場面でもぜんぜん違います。その違いが面白いんです。


2017年11月2日木曜日

イエスはだれか?

   約束どおり、祭司と神殿警備兵が松明をかかげてやってきます。

「待たせたな」
  祭司はそう言うと直ぐに、「イエスはだれか?」と訊いた。
  ユダがイエスに近づき、「師よ」と言って、自分の唇をイエスの唇に押しあてた。イエスはユダを抱きしめた。

 
男の人同士のキスです。しかもイエスはユダを抱きしめたんです。
 きっとそれはユダに対する感謝を表したのでしょう。そういえば妻のマリハムもイエスにキスしました。でもイエスは彼女を抱きしめなかった。なぜかな? それはおいて、このあとハプニングがおこります。それはまた。

2017年11月1日水曜日

奈落の底

 小説に戻ります。
 イエスとユダは先にゲッセマネに着いています。ユダはすでに何人かの仲間をそこに待機させています。おそらく約束を破られたときの用心のためでしょう。

「季節は春の到来を告げていたとはいえ、夜風は冷たかった。立っていると底冷えがした。そこに居合わせた者たちはみな肩をすぼめ、押し黙ったまま、奈落の底を覗き込む人のように項垂れていた。」

情景が目に浮かぶようです。でもそれだけではなく、そこにいる人たちの心も冷え込んでしまっているのが伝わってきます。イエスもペトロもユダもとても緊張しているんです。それにこれから逮捕されて死んでしまうことが分かっていれば、心の中は真っ暗にちがいありません。「どうかこの杯をわたしから取りのけてください」っていうイエスの言葉を、作者はリアルな状況設定で巧みに描きだしいていると思います。
 わたしは神の子というより、人間であるイエスのほうが好きです。絶望の底でうめいているイエスが。それがほんとうの神の子なんです、きっと。作者はそう言ってるように思います。


2017年10月30日月曜日

裏切り者ユダ

 さてゲッセマネです。聖書でも最後の晩餐がおわったあと、イエスは弟子たちを連れてここへやってきます。ここで弟子たちが眠ってしまいます。どうして夜中にこんな淋しいところへ来るのでしょう? 弟子たちが眠ってしまうのは、これからイエスの身に起こることを知らないからですけど、イエスだけはそれを知っています。
 なぜイエスは知ってるのでしょう? 神の子だから? そこをよく読むと、イエスは逮捕されるのがわかっていてゲッセマネに来たのは明らかです。晩餐の席でユダの裏切りを見抜いていたイエスですから、イエスはわざわざここへ来たんです。
 聖書にはこう書いてあります。「……時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者がきた。」(マルコ福音書1441-42

イエスは神の子だからユダの裏切りはわかっていたけど、人々を救うために十字架にかけられるために、すすんで逮捕されたんだってこと。聖書に書いてあることはそういうことだけど、でもわたしにはどうしても不自然で、あとからうまくまとめられたって感じが残るんです。
  ユダの裏切りが本当なら、イエスはユダにだまされて連れ出されたのじゃないかな? 
  そしてまんまと逮捕されてしまった。それが事件の真相。だからユダは裏切り者だったっていえば、ずうっと納得がゆきます。

でも小説のほうもリアルです。イエスとユダはつながっていたというんですから。それってアリですね。だからこの小説おもしろいんです。
 

2017年10月29日日曜日

サウロだ

 そこでユダは、イエスをゲッセマネで逮捕させるかわりに、「仲間を一人、法廷で傍聴させよ」といいます。それはペトロです。そのあと、ユダは審問官に「差支えなければ、あんたの名前を訊いておきたい」と言うと、審問官が「サウロだ」と答えます。

サウロってわかります? あのパウロのことです。
  これまでいやなヤツって思ってた審問官がなんとあのパウロだなんて!

サプライズですよね。でもパウロって最初はイエスの仲間を捕えていじめていた人ですから、作者がそういうキャラクターで書くのもうなずけますね。
 

2017年10月27日金曜日

*****

 聖書で有名なゲッセマネですが、なかなか現地には行けませんよね。作者の竹内さんは行ったことあるのかな? でも今と当時では時代も違いますよね。とにかく作者によるゲッセマネの描写はとてもイイ感じです。でもここは割愛して先に進みます。
 
 情景描写のあと、ユダと審問官とのやりとりの場面が挿入されます。けっこう長いです。そのなかでイエスを逮捕して殺すためには、ユダヤ側で裁くだけではダメで、イエスをローマに引き渡す必要があるというんです。それでイエスにちょっとしたお芝居をさせて、「このひとローマに反抗しましたよ」って逮捕して、ローマ側に突きだそうというんです。

 でもローマに逆らったら大変です。イエスの仲間まで全員逮捕されてしまいます。そのことをユダがいうと、審問官はだいじょうぶって言うんですけど、ほんとにだいじょうぶなんでしょうか?


2017年10月26日木曜日

ゲッセマネ

 7節に入ります。
 ここは有名なゲッセマネの場面です。聖書では疲労で居眠りしている弟子たちのそばで、イエスがたったひとり「父よ、どうかこの杯をわたしから取りのけてください」って祈る場面です。
 こんな絵みたことありませんか?


 人間であるイエスの苦しみが告白される場面で、まるで処刑されるまえの死刑囚のような心境がこちらにもひしひしと伝わってきます。
 教会の説教では、ひとり祈るイエスとそのそばで眠りこけるダメな弟子たちという対比で、信者に「あなたもこの弟子たちのように眠りこけてはいませんか」なんてお説教されたりします。
 もうひとつ、これにつづくイエスの言葉「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」というのから、神さまに従うことの大切さが説かれたりします。
 でも神さまの御心(みこころ)なんてだれにもわかりません。そんなことをあの熱心党のシモンさんがイエスに言ってましたよね。イエスはなんて答えてましたっけ?


2017年10月25日水曜日

さよならラボニ


さて、イエスはお供のペトロといっしょに「マリアの家」を出ます。
 するとイエスの妻のマリハムがあとを追っかけてきます。

 「わたしに別れも告げずに行ってしまうの?」と、かの女は言った。
 顔は微笑んでいた。マリハムはイエスに近づくと、結っていた髪をほどいた。長い髪が波打つようにこぼれた。それからかの女は、イエスが被っていた頭巾(クフィア)を脱がした。そしてイエスの唇にそっと接吻した。イエスは何も言わず、かの女の為すがままにさせた。
 「さよならラボニ」

まだ描写はつづきますけど、このくらいで。
 マリハムはイエスのまえで女としてふるまってみせます。かわいいでしょ。
 でもとっても悲しくて切ない場面です。わたしここを読むと泣いちゃうんです。
 ぜひ小説を読んで味わってみてください。

2017年10月24日火曜日

みな杯を取ってくれ


いよいよ晩餐もおわり。イエスが言います。

「みな杯を取ってくれ。これがおれからの餞別(せんべつ)だ」

この場面は教会では聖餐式といわれるところでしょう。わたしがまえに通っていた教会では必ず次の箇所が読まれました。
「取りなさい、これはわたしの体である。」
すると配られたパンのかけらを口に入れて食べます。つぎにブドウ酒が入った小さな杯を持って、
「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」
と言われると、一口ブドウ酒を飲むんです。
パンとブドウ酒はイエスの肉と血を表しています。教会の人ならおわかりでしょうけど、はじめての人には何のことだかわかりません??? それにちょっと気味がわるいでしょ。人の肉と血ですものね。わたしは小さいころから通ってましたから、とくに違和感はもちませんでしたけど、でもいまから考えるとちょっと変な感じがします。宗教儀式ってそういうものかもしれませんけど。

小説にもどります。ここでのイエスはこれが肉だ、これが血だなんて言ってません。ただ「餞別だ」と言ってるだけ。でもとてもシンプルでリアルです。ほんとうはこんなだっかもしれないなって思わせます。これなら別れの盃みたいなものですから、わたしたちにもよくわかります。
 

 

2017年10月23日月曜日

一粒の種

「重要なこと」は以前ユダにだけそっと伝えたのです。
それをユダがペトロにだけ漏らしたことがあったから、のちにマルコがペトロから聞くことができた(バトンリレーみたいに)のです。
「神殿は屍(しかばね)のうえに立っている。神殿の地下にはどれだけの屍が横たわっていることか。ヨハネも殺害され、屍になってしまった。おれもいずれそうなるだろう。だがその累々と横たわる屍の中から、何かがむっくりと起き上がってくるに違いない。おれはそのためにここで一粒の種になろうと思う……」
ぞっとするような話を聞かされたユダはどう思ったことでしょう。
「一粒の種」というのは、聖書の有名な箇所を思い出させます。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書1224節)

教会の説教などではいろんな比喩として使われますけど、本来はやっぱりイエスが自分の死を暗示した言葉ですね。だからイエスはみんなに「伏せた」んです。だってもしも明らかにすれば、みんなが引きとめるにちがいないから。

2017年10月22日日曜日

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シモンの挑発的な問いにイエスはのりません。でもみんなに向って言います。
長いので一部省きます。
「……かれらは病める者たちにも貧しい者たちにも寄り添わず、ただ貢税を搾り取って、自分たちを肥え太らせているだけだ。おれがここへ来たのは、かれらにそのことを分らせてやるためだ。……だがかれらは耳を傾けるどころか、おれを排斥しようとしている。だからおれはここを去ることにしたのだ」
そこにいる人たちはみな、それがエルサレムを去る理由だと理解してほっとします。
だってイエスが重い腰をあげたのですから。
でも「イエスの言葉には重要なことが伏せられていた。」とつづくのです。

つづきはまた。

2017年10月21日土曜日

おれは今日でここを去る

イエスが晩餐の終了を告げたあとも、もうしばらくこの場面はつづきます。
イエスはこう言います。
「みな聴いてくれ。おれは今日でここを去る。お前たちも知ってのとおり、おれは官憲に狙われている。だがおれが心配しているのはお前たちのことだ。おれの巻き添えをくって、お前たちまで逮捕されてはかなわぬ。だからしばらくの間、おれに構わないでくれ。おれはここを去るが、お前たちはここに残れ」
みんなはイエスの真意を測りかねています。でもイエスが自分から「ここ」を去るというんですから、とりあえずよかったと思ったんです。でも「ここ」はじつはエルサレムではなくて、「この地上」のことなんです。勘違いしたシモン(熱心党のシモン)がまた絡みます。
「師よ、貴方はなぜエルサレムに来たのか? 日ごろ神殿を強盗の巣だと批難していた貴方のことだ。おれはもう少しここで立ち回ってくれるものと思っていたのだが……それに師よ、貴方はときどき、自分はいつか死ぬと言っていた。それはこのエルサレムの話ではないのか……」
挑発的な発言です。シモンはまだイエスに革命家みたいなことを期待しているみたい。だから、あなたは尻尾をまいて逃げるんですかって言いたいんでしょう。


2017年10月19日木曜日

ユダは何処へいったの?

さて先へ進みます。
晩餐もそろそろ終わりになるころ、ユダがイエスの耳元で何かを告げて、先に出てゆきます。
ユダの目的を知っているのはイエスのほかにはペトロだけです。
ユダは仲間とすぐに落ち合って、ゲッセマネに向います。
場面は晩餐の場面に戻ります。「ユダは何処へ行ったの?」と聞く妻のマリハムに、イエスはさりげなく「用を済ますためだ」と答えます。
ここからマリハムの内心(心理描写)がくわしく描かれます。彼女は何かを直感しているのです。とてもいいところですけど、長いので引用はできません。ぜひ小説を読んでみてください。

そのあと、イエスが晩餐の終了を告げます。このつづきはまた。

2017年10月18日水曜日

精一杯生きよ

まえのつづき。シモンは言います。
「幻? そうかも知れぬ。何の応えも返って来ないのはそのためだったかもしれぬ……」
 そうだよね。神なんてまぼろしだよねって思いきや、
「まだ分らぬか。応えがすでにあることを」「応えがすでにあると? おれは運動に挫折した男だ」「同じことだ。お前はここにいるではないか。それが応えだ。神の心とはそういうものだ」
 そう、もうすでに生かされてるんだってこと。ほかになにがいるのって。
 その命を大切にして精一杯生きよって、それが神の心の実践だって、そうイエスは言ってるんです。
そう思うと、イエスの死は、死ぬことじゃなくて、生きることだったんだなって、思えるんです。

ちがうかな?

2017年10月17日火曜日

神は幻にすぎぬ

昨日のところをすこし巻き戻します。
お前がガリラヤで闘ったことは少しも無益なことではない」と言うイエスに、シモンは「どうして無益でなかったと言えるのか?」と突っ込みます。ちょっと失礼して……
 「……そう言えるのは貴方が神の子、いや人の子だからか?」 「そうではない。神の子であれ、人の子であれ、神の心というものはこれだと言って示すことはできぬ。お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜しても見つかるまい。お前が希望を託した神は幻にすぎぬ」
 これって、すごい言葉でしょ。以前はわたしも神がどこかにいると思っていました。でも祈っても、かなえられるものとはかぎりません。いいえ、ほとんどかなえられないです。かみさま助けてくださいって祈っても、助けてもらえないことはちょっちゅうあります。神さまなんていない。そう思います。ほんとに。シモンもそう思ったでしょう。そう言うと、それはあなたの祈りが足りないからですとか、そのうち答えがありますとか言われるんですけど、しょうじき信じられません。
 でもイエスが(もちろん小説のなかですけど)「お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜しても見つかるまい」と言うのを聞くと、まるで自分に言われているように思えるんです。それどういうこと?って聞きたくなるんです。

2017年10月16日月曜日

それが応えだ

またはぐらかしでおわり? でもここは一度立ち止まって考えたいところです。
原爆で傷ついた方々はきっと「なぜ、自分が?」と問い続けておられるんじゃないでしょうか? でも簡単に傷が癒されるなんてことはないでしょう。
だれも「なぜ」という問いに答えてくれません。「しょうがなかった」なんていった大臣もいましたけど。でもイエスは「応えはすでにある」と言うんです。「お前はここにいるではないか。それが応えだ」と。これ、はぐらかしなんかじゃありません。ここには、たしかにそうだなって思わせるものがあります。どんなかたちであっても、いま生きているってとても素敵なこと
 とにかくいま生きている。イエスは「神の心とはそういうものだ」と言います。わたし、自分のことをふりかえってみて、そうだねって思うんです。
でもここでひとつ大切なことを飛ばしてしまいました。それはまた。

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...