2017年9月27日水曜日

主の祈り 2

このあと、イエスが唱えた祈りに対する反応が描写されます。ちょっと失礼して……
イエスが人前で祈るのを見て、みな驚いた。さらにそれが正式な祈り(カディシュ)の言葉から逸脱していることも、みなを驚かせた。ことに神に対する冒頭の呼びかけが親しみを込めた「父(アバ)よ」で始まったことは意外であった。それでもみな「アーメン」と唱和した。

教会ではあたりまえに唱えられている「主の祈り」ですけど、それはカディシュというユダヤ教の祈りを基して、それをアレンジしたものなのでしょうね。

2017年9月24日日曜日

主の祈り 1

父母に連れられて教会に通っていたころ、礼拝の中で毎週「主の祈り」を唱えました。いまでも諳んじて言うことができます。
まえの回で引用したイエスの祈りは、それとだいたいは同じですけど、ちがってもいます。
まず「天」というのがありません。「天にまします」とか「天になるごとく」とかいうのが抜けてます。
それから「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」というのがありません。そのかわりでしょうか、「負債を赦し給え」となってます。罪はかみさまに対する負債ですけど、小説で言われているのはもっとリアルなことかもしれません。借金とか。
それから「われらを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」というのが簡単に「悪より護り給え」となっています。これもリアルな意味で言ってるんじゃないでしょうか? たとえばローマとか神殿の権力が対象になってるんじゃないかな? 
そして最後に「国と力と栄とはなんじのものなればなり」という結びの言葉も抜けています。ですから生活に直接結びついた祈りになってます。いまの「主の祈り」とくらべるととてもシンプルです。

いまの「主の祈り」は後からいろいろと飾りをつけたものでしょうね、きっと。


2017年9月23日土曜日

最後の晩餐

6節に入ります。「最後の晩餐」で有名な場面です。でもそこに集まっているのは12弟子ではなくて、10人ほどです。そのなかにはイエスの妻マリハムも入ってます。ほかにあのラザロも呼ばれています。
マルコはこのときイエスを間近で見ます。ちょっと失礼して……
かれはそのとき初めてイエスを間近で見た。イエスはいくぶん緊張しているように見えた。日焼けした肌には艶があった。髭は延(ママ)びていたが、それがかえって容貌に風格を与えていた。
イエスのイメージといえば、長髪で髭をたくわえた顔。竹内さんが描くイメージもそのようなものでしょうか。でももうすこし詳しい描写で、マルコから見たイエスを描いてほしかったな。
それはともかく、イエスは食前の祈りをします。
「父(アバ)よ、願わくは御名(みな)を崇めさせ給え、御国を来らせ給え、御心(みこころ)を行なわせ給え、日々の糧を与え給え、負債を赦し給え、悪より護り給え……」

これは教会では「主の祈り」と言われてます。私も教会でよく唱えました。でもちょっとちがうんです。でも長くなりそうですから、またこのつぎにします。

2017年9月19日火曜日

ユダの使命

そういうわけで、イエスの策略を成就させることができるのはユダだけです。
ユダは、それがじぶんの「使命」だと思ってます。
それにイエスが死んだ後のことも考えなければなりません。
そこでユダは、イエスの遺志をうけつぐ人たちが「組織」をつくることを考えます。
面白いのは、ユダは組織を作る人たちに自分を加えていないことです。
ここでユダが考えているのは、いつかできる「組織」を想定して、それをあらかじめ守ろうということなんです。ユダは先のことまで心配しているんです。
そのためにユダは神殿に出向いて交渉してきたんです。ちょっと失礼して……
「そうだ。師が捕まれば、おれたちにたいする官憲の追及は免れない。だがおれたちが散り散りになってしまえば、だれが師の遺志を引き継ぐのだ? これまでのように師に随っているだけでは済まなくなる。これからはもっと結束を固めなければ立ち行かなくなるだろう。だから組織が必要なのだ。組織をつくって官憲の追及から守られるような方策を立てていくことが必要なのだ。……その手始めに、やつらと交渉する必要があったのだ」 
 福音書はどれもイエスの死を「受難」として描いてますけど、当時イエスは熱心党との関係が疑われる要注意人物。そのリーダーが処刑されたのですから、かれの仲間たちはいまでいえば「共謀罪」で捕まる恐れがあったはずです。リーダーを処刑したからといって、それで官憲が手をゆるめるとは思えません。だからユダが、イエスが死んだあとの仲間の安全を考えたのはとてもリアルなことに思えます。ユダはそのために「先手」を打ったんです。ユダってすごい!

2017年9月18日月曜日

ペトロは頭を抱えた


さて、ユダから「それでは事は成らぬのだ」と言われたペトロですが、じつはペトロも考えていたのです。カッコ書きで、ペトロの心理が書かれてます。
(それでは事は成らぬ ―― そうだ、そういうことだ、おれが予感していたことは……)
ペトロは何もわかっていなかったのではありません。その前のところで「ペトロはすでに気づいてもいたのである」と書かれてます。
でもペトロにはイエスの策略を成就させるなんてことはとてもできません。
わたしだってムリ。恐ろしすぎ。
ユダから「師が死んで、お前が生きるのだ」と言われたとき、
ペトロは頭を抱えた。 
その気持ちはよくわかります。


2017年9月11日月曜日

人の子

イエスは後のことはなにも告げずに死んでゆきました。
でもキー・ワードをのこしてゆきました。
それが「人の子」です。
ユダはペトロと話し合う場面でこう言ってます。
「師は苦杯の底の底まで飲み干す、人の子として犠牲になる覚悟で、死ななければ生まれるものも生まれないのだ」
でも「人の子」って?
もう少しあとの方で、熱心党のシモンがイエスに絡んで、「貴方は神の子と呼ばれているではないか?と言うと、イエスが「いや、人の子にすぎぬ」と答えます。
でも「どう違うのだ?」って聞き返すと、「言ったとおりだ」と答えるのです。
これって???ですね。
これはまた考えることにします。


2017年9月10日日曜日

大きな力

ユダが言う「事は成らぬ」の「事」って、なんのことでしょう?
それは「イエスの策略」を実現させることです。
イエスの策略とは、じぶんが死んで、そのあとをペトロたちに託すことです。
でもイエスはユダやペトロに後のことは何も伝えてません。
ふつうなら遺言をのこすでしょうけど、イエスは何ものこしてません。
つぎのことをフリーハンドで託したのです。

これっていいかげん? それとも信頼? 
わたしはゆだねるってことではないかと思います。
イエスはじぶんを一粒の麦にたとえます。
それを育てるのはたしかに農夫だけど、太陽や水はあげられません。

きっと大きな力にゆだねたんじゃないかしら……


2017年9月6日水曜日

それでは事は成らぬのだ!

さてユダはペトロを前にして、あの計画を打ち明けます。といっても、大変な計画ですから、ユダはじっくり話を進めます。でもここではちょっと端折って、肝心なところにゆきます。
「そうだ、シモン。師が考えていることは、何かを壊すことではなく、神の国を建設することだ。これまでに現れた者たちが考えて来たようなものではなく、これまで誰も考えなかったような突拍子もないことを考えているのだ」
話はいよいよ重要なところに入ってゆきます。師であるイエスが死を覚悟していることが、ユダの口から明らかにされます。するとペトロは言います。
「とんでもないことだ。師を失ってしまえば、おれたちはどうなる? 頭石(かしら)を失った家と同じではないか。それだけは何としても阻止しなければならぬ」
ペトロにはまだユダの言っている意味がわかってません。「ばかなことを言うな。死んで生きるだと?」と反論します。ここでユダは重要な決めぜりふを口にします。
「それでは事は成らぬのだ!」
きょうはこのくらいにします。


2017年9月4日月曜日

5節に入ります。
ユダはお勤め中のペトロのところに来て、「お前に話があるのだ」と声をかけます。
ユダが誘った先はユダの「隠れ家」です。アクラとよばれる貧民窟(スラム)、そこにユダの「隠れ家」があります。真っ暗がりの部屋で待たされたペトロが夢をみます。ちょっと失礼して……
ガリラヤの湖で仲間と漁をしている夢をみた。網に掛った魚が銀鱗をきらきらと輝かせていた。仲間たちは大漁に沸いていた。一人が歌い出すと、みなが声をあげて歌った。ペトロも歌った。すると遠くに「師」の姿が見えた。ペトロは「師」の方に向って歩いていった。
聖書に親しんでいる方なら、すぐに思い浮かぶんじゃないかですか? イエスの水上歩行といわれる奇跡です。聖書では、疑いをもったペトロが溺れるところです。でもここではちょっと違ってます。
すると突然、「師」の背後から光が射した……
ここで現実にもどるんです。イエスの背後から射した光は、じつはユダが扉を開けて入ってきたときに、部屋に射しこんだ光でした。

作者はここでイエスとユダをオーバーラップさせているんじゃないでしょうか? コントラストが見事な演出ですね。


第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...