2018年3月31日土曜日

これが神の子だ


 イエスは杭に架けられた状態で、時間が経過してゆきます。
 ローマ兵がイエスの足の脛を槍の先でつっついても、もう反応しません。

イエスの命はもう尽きてしまいました。

マタイやルカの福音書ではこのとき神殿の幕が裂け、地震がおこってすごいことになりますが、小説では何も起こりません。でもこのほうがうそっぽくないし、不気味でミステリアスです。
それからここでおもしろいのは、ローマの隊長(百人隊長)が「これが神の子だ」と言っているところです。ふつう最初の信仰告白みたいに言われたりしますが、小説では隊長が言い放った皮肉とされています。だから祭司長たちが失笑したのでしょう。「ユダヤ王」というのもイエスをあざける言葉だったのですから、隊長の言葉もそうだったかもしれませんね。
 

2018年3月29日木曜日

ゴルゴタの丘


雨雲が垂れこめていた。その曇天の下、ゴルゴタの丘に一本の杭がぽつねんと立っている。その上空を鳥が舞っていた。……

 

13節はこんな書き出しではじまります。引き立てられたイエスの前で罪状が読み上げられます。「この罪人、ガリラヤのイエスは、ユダヤ王の僭称、および皇帝に対する反逆の廉により死罪と決せられた者である。これより罪人イエスに対して下された刑を執行する」

こうしてイエスは両手首に釘を打ち込まれ、その横木が杭に差しこまれます。そして杭が突き出たところに「ユダヤ王」という捨札が張り付けられます。でもこれは冤罪なのです。いつの時代もこういう良心の囚人がいますが、イエスもそのようにして死刑にされるのです。でも悲しいことに、イエスは嘲りを受けます。

 受難の場面は福音書でもわりとくわしく書かれていますが、作者はそれをなぞるようには書いてません。いちばん大きな違いは、福音書ではイエスの両隣りに囚人がいるのですが、小説ではイエスがひとりいるだけです。それから有名な「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉もありません。イエスはもう一言も発していないのです。

 

2018年3月28日水曜日

ラボニ、ラボニ


いよいよ「王の道」から城門にさしかかったところで、マルコはマリハムとペトロの姿を見つけます。ふたりはそれぞれにイエスのなまえを呼びつづけてます。

マルコは、マリハムが「ラボニ、ラボニ」と呟いているのが、口の動きでわかった。ペトロは顔を引きつらせ「ヨーシュア、ヨーシュア」とイエスの名を呼びつづけていた。むせ返るような熱気のなかで、その光景がマルコの目に強く焼きついた……

ラボニもヨーシュアも二人がふだん使っている呼称でしょう。ひとは大事なときに、その人のなまえを呼びます。なまえって不思議です。きっとイエスはふたりの呼びかけを聞いたことでしょう。

ここで12節がおわり、13節に入ってゆきます。

 

2018年3月27日火曜日

死の行進


「死の行進」の場面はまだつづきます。「王の道」の沿道の群衆は膨れ上がって、「祭日の見世物でも楽しむかのように」たいへんな騒ぎになってます。犬がほえてます。「ユダヤ王ばんざい」ってふざけている人たちもいます。イエスは横木をかつげなくなって、ローマ兵がほかの人にかつがせたりします。この人の名は書かれてませんが、聖書では「シモンというキレネ人」(マルコ15章21節)として書かれてます。イエスがゴルゴタまで引かれていく情景は聖書にはあまり詳しく描かれてませんが、映画などではよく見ます。作者の描写もそんな感じです。でもその場の情景が目に浮かぶように描かれています。そのなかで語り手がつぎのように語ります

……祭司たちが選んだその日が、ちょうど過越祭に屠(ほふ)られる子羊のように、「人の子」の犠牲の日となることを、かれらは知る由もなかった……そこに何者かの企みがあったのであろうか。ひょっとしてそれは、ほんとうに神の筋書きというようなものであったのかもしれない……

「神の筋書き」というのは、法廷でイエスが口にした言葉です。なにかとても大事なことを暗示しているような言葉です。

 
 ところでイエスが十字架をかついで通った道は「悲しみの道」と呼ばれてますが、小説では人々が「王の道」(正式な名前ではないようですけど)と呼んでいることになってます。話がとつぜん飛びますが、あのアカデミー賞でスターが通る道をレッドカーペットと呼びますけど(ウィキペディアをみると、ギリシャ悲劇の「アガメムノン」が出典みたいです)、なぜ赤なのかなと考えてみますと、なにか血の色にも思えます。華やかな道ですけど、裏返すと不吉な感じもします。どこかで受難のイエスが歩んだ道と重なるような気もします。ちょっと想像がすぎるかもしれませんけど。

2018年3月25日日曜日

飛翔のかなわない鳥

 神殿から正午を告げる角笛(ショファル)の音が響きます。でもそれを「かき消すように」アントニオ城塞からラッパが「高らかに」響きます。この描写でユダヤとローマの対抗関係が示されてます。そしてまもなくして「ひとりの男」が姿を見せます。マルコの目を通して描かれるイエスの描写は詩的です。ちょっと失礼して……

 たしかに、そこに立っていたのは、紛れもなくイエスであった。かれの頭は垂れ、両腕は横木に縛られて水平の高さに持ち上げられていた。それはまるで翼を傷めた鳥のように、もはや飛ぶことの叶わない翼を背負って、いかにも醜態を晒していた。
 それがイエスであった。もはや飛翔のかなわないこの鳥は、これからどこに向おうとしているのだろうか。いやそれはどんな鳥よりも遥かに高い境地をめざしているはずであった。だが、人々はおろか、マルコにさえそのことを見通すことはできなかった……

 じつは後の段落にはちょっとした「破れ」があります。「それはどんな鳥よりも遥かに高い境地をめざしているはずであった」というのは、語り手の言葉ではないような気がするのです。小説の語り手はかならずしも作者と同じではありません。語り手もまたフィクショナルな存在です。その語り手が、先を見通して「高い境地」と言うのは、とても教会的な表現だと思うのです。きっとここでは作者(竹内氏)が、ご自身の信仰感からこのフレーズを書きこんだのではないかしら? でも両腕を横木で縛られ、水平に伸ばした両腕を翼を広げた鳥のイメージに重ねたのはとても新鮮です。もちろんそんなこといったら叱られるかもしれまでんけど。でもイエスが広げた両腕が鳥の翼のイメージにかさなって、それが飛翔のかなわない鳥の痛ましさを表しているのです。やっぱり詩的じゃないかしら。


 

2018年3月7日水曜日

王の道

 12節からはいよいよイエスが処刑される場面に向います。でも小説として面白いのは、処刑につづくあとの物語りの展開です。第1章の面白さはここからといってもいいくらいです。

 
 さて12節です。マルコの目を通して、つぎのように描かれます。

空は翳り始めていた。だがエルサレムの町は、曇天のなかにも、祭日らしい賑わいをみせていた。そのなかにマルコの姿もあった。かれはペトロたちを送り出すと、自分もその後を追ったのである。
 
 マルコは初詣?で賑わう神殿の前を通って、神殿の北側に設けられたアントニオ城塞に向います。その前の路地(現在では「悲しみの道」と呼ばれていますが、小説では「王の道」と呼ばれてます)まで来ます。囚人がその狭い路地を歩くのを見物するために、民衆がもう人垣をつくっています。



 

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...