神殿から正午を告げる角笛(ショファル)の音が響きます。でもそれを「かき消すように」アントニオ城塞からラッパが「高らかに」響きます。この描写でユダヤとローマの対抗関係が示されてます。そしてまもなくして「ひとりの男」が姿を見せます。マルコの目を通して描かれるイエスの描写は詩的です。ちょっと失礼して……
たしかに、そこに立っていたのは、紛れもなくイエスであった。かれの頭は垂れ、両腕は横木に縛られて水平の高さに持ち上げられていた。それはまるで翼を傷めた鳥のように、もはや飛ぶことの叶わない翼を背負って、いかにも醜態を晒していた。
それがイエスであった。もはや飛翔のかなわないこの鳥は、これからどこに向おうとしているのだろうか。いやそれはどんな鳥よりも遥かに高い境地をめざしているはずであった。だが、人々はおろか、マルコにさえそのことを見通すことはできなかった……
じつは後の段落にはちょっとした「破れ」があります。「それはどんな鳥よりも遥かに高い境地をめざしているはずであった」というのは、語り手の言葉ではないような気がするのです。小説の語り手はかならずしも作者と同じではありません。語り手もまたフィクショナルな存在です。その語り手が、先を見通して「高い境地」と言うのは、とても教会的な表現だと思うのです。きっとここでは作者(竹内氏)が、ご自身の信仰感からこのフレーズを書きこんだのではないかしら? でも両腕を横木で縛られ、水平に伸ばした両腕を翼を広げた鳥のイメージに重ねたのはとても新鮮です。もちろんそんなこといったら叱られるかもしれまでんけど。でもイエスが広げた両腕が鳥の翼のイメージにかさなって、それが飛翔のかなわない鳥の痛ましさを表しているのです。やっぱり詩的じゃないかしら。
0 件のコメント:
コメントを投稿