2023年6月16日金曜日

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。
 本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「公生涯」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリストになるまでの物語というのは、私たちの興味をそそります。
 作者は公生涯以前のイエスを「エッセネの園」という学校(僧院)の学僧として描きます。エッセネの園は洗礼者ヨハネが開いた学校です。作者がこの学校を設定したのは、イエスとヨハネの関係を描き出すためです。福音書では、また一般には、ヨハネはイエスの先導者ですが、「その方の履物の紐を解く値打ちもない」(マルコ福音書1章)と、かんたんに片づけられています。これはイエスを神の子として強調するためです。でも作者は二人のの関係を師弟関係として描きました。これは、二人の関係をもっとリアルなものとして描き出すための、作者の創造的な工夫だと思います。

 ところで「エッセネの園」ですが、これは単なる作者の思い付きではありません。ヨハネ教団というのはクムラン教団と関係があったらしく、クムラン教団は厳格な教義でもって神殿の権威に対抗していた集団だとみられています。小説で、ヨハネは「エッセネの園」をそのクムラン教団から独立したものとして設定しています。これは可能性として妥当な設定だと思います。
 
 もうひとつ言えるのは、本章に限りませんが、イエスとその仲間たちの活動を当時の社会の中で描いている点です。当時のユダヤ社会はローマという大きな権力に支配されてましたから、ローマはユダヤ共通の敵ですが、ユダヤ社会の内部にあっては宗教的権威である神殿と、ヘロデのような世俗的権威が存在する二重構造をつくっていました。こうした社会構造の下で民衆はローマからも神殿からも為政者からも支配されていました。ヨハネもイエスもこの社会構造の下であえぐ民衆の側に立って、権威や権力に対峙していたわけです。そうしたことがこの小説全体の背景を形作っていますから、本章もとうぜん社会というのは重要な背景として描かれています。聖書あるいはイエスたちの行動は、もちろん宗教的に意味があって、だから今日までその影響を及ぼしているんですが、もう一つの社会的・歴史的な視点で聖書あるいはイエスたちの行動を考えてみることは、こんにちキリスト教が大きな影響力をもっているだけに、とても意味があると思います。
参考にどうぞ→エッセネ派 

2023年6月14日水曜日

時は近づいていた

  エッセネの園での営みが終焉を迎え、ヨハネの遺志は北と南に分派していった弟子たちに受け継がれます。かれらがヨハネから受け継いだ最大の遺産は「終末」という認識です。ユダヤの社会はメシアを待望しています。各地にメシアを名乗る者たちが現れます。そのような時代の流れのなかでイエスがしだいにメシアの自覚をもつようになっていくのですが、この時はまだ無名です。第2章はこう結ばれています。

 この時まだ、イエス自身にそのような自覚がなかったことである。― そのことは神のみぞ知ることであった。だがたしかに、時は近づいていた。

 

言葉の不思議

 目覚めたイエスは夢の意味を考えます。三つの誘いを拒否したことは自分が無力であることを自覚したということです。でもその拒否は自分の意思というより「何者か」に押されて発せられたものであることに気づきます。
 たしかに言葉は不思議です。いまわたしが言ってることはすべてわたしの意思から発せられたものとは言い切れません。言葉には自分が発しながら自分を超えた何かがあります。言葉に潜む自分を超える何か。それがヨハネがイエスに言った「宿命」を想起させます。イエスは神の言葉の意味を考えます。

 イエスは学友のヨハネに夢のことを話します。それをじっと聴いていたヨハネは、イエスが師ヨハネの後継者であることを確信します。そしてともにガリラヤに還って、師の遺志を継ぐことを確認し合います。

2023年6月13日火曜日

荒野の誘惑

  最終節の15節です。
 眠りに落ちたイエスの枕元に師ヨハネが現れます。ヨハネはイエスを荒野へ連れ出します。そしていつの間にかヨハネの姿が消え、霊がイエスを誘って三つの問いを順に投げかけます。
 一つ目は石をパンに変える誘い、二つ目は空を飛翔する誘い、そして三つめはこの国を支配する誘い……と言えば、福音書にある「荒野の誘惑」を思い浮かべますね。でも福音書ではヨハネから洗礼を受けたすぐあとの出来事として書かれてました。(マルコ福音書一章)しかも四十日間です。それが小説ではヨハネの死後、園の解体前の夢の中の出来事に変えられてます。でもこの改変、小説の流れからすれば不自然なものではないばかりか、ガリラヤへ還る前のイエスの心境に合ってます。

2023年6月12日月曜日

園の解体

  ヨハネを慕う弟子たちの集まりだったエッセネの園。主を失った園は、いよいよ解体の時を迎えます。
 対ヘロデでは武闘派と穏健派に分かれていた園ですが、もともとは残留派と独立派があったようで、前者は首都エルサレムがあるユダ出身者が多く、後者はガリラヤからの「留学生」が多かったと書かれたます。留学生ならいつか故郷に帰ります。イエスたちは、師ヨハネの死をきっかけに、活動の拠点を故郷のガリラヤに移すことを決意します。ガリラヤはヘロデの領地。けして楽なところではありません。イエスの闘いはそこで始まったのです。
 でもそれはすでに第一章で語られました。

2023年6月11日日曜日

園の存亡

  フィリポとヤコブが園に帰ってみると、そこではヘロデに対して武器をもって戦おうという者たちとそれに反対する者たちの間で分裂が生じていました。
 ここでもイエスの発言権は大きいようで、ヘロデに対抗するなら、いまいるユダヤよりもヘロデの領地であるガリラヤのほうがよいと言います。しかしイエスにとって本当の相手はヘロデというより、ヘロデに体現された終末のありさまです。かれは言います。「ユダヤはヘロデ家の腐敗とともに朽ちようとしているのだ。それが終末の兆候だ。だが終末はもはや避けることはできぬ。」そしてつづけて、「師はそう考え、行動したのだ」と言い、そのあとに重要なことが語られます。

 師はその答えを何も遺さずに死んでいった。だが、それこそが師の遺志というものであろう。それに答えるのは師ではなく、おれたちのほうだ。

これって、後のイエスそっくりですね。でもそれを口にするのは誰かしら?

2023年6月10日土曜日

ティベリアスで

 14節です。12節でフィリポとヤコブのふたりがガリラヤに向かうことが書かれていました。本節はその話から始めります。
 かれらはガリラヤの首都ティベリアスの町に入って、そこの人々からいろいろな話を聞きだします。でもかれらが聞き出したいのはもちろんヘロデの動向です。
 そして、どうやら目立った動きはないようだとみたかれらはエルサレムを経由して園に帰ります。

2023年6月9日金曜日

ネシャートの凱歌

 ヘロデはヨハネの遺骸がエッセネの園に送り付けられたことを突き止めます。
 そして侍従と相談したうえで、園について今後の動向を見守ることにします。

 ともかくネシャートの復讐は遂げられました。でも彼女は凱歌をあげたのでしょうか? そのとばっちりを受けたのがヨハネですが、かれはそれを「宿命」として受け入れたかもしれませんね。やはり割を食ったのはヘロデと妻ですね。さぞや肝をつぶしたことでしょうね。
 
 福音書に書かれたヨハネの首事件。そこでもヨハネの首はサロメの邪な思いつきで切り落されたことになっていますが、ほんとうにそうだったんでしょうか? もっと現実を反映したリアルな理由があったんじゃないかな? 小説は、必ずしもリアルな想像とは言えなくとも、領主ヘロデが置かれた状況やエッセネの園が置かれた状況を軸に、当時の情勢を反映した物語となっています。ヘロデの本妻(ネシャート)を登場させてくれただけでも「功績」かな? だって彼女、福音書ではノーマークですものね。その彼女をキーマンとしてヨハネ事件を描いたところが、この小説らしいところです。

2023年6月7日水曜日

呪われた結婚

 13節です。
 ヨハネの遺骸がエッセネの園に送り付けられてきた同じころ、ヘロデのもとにネシャートの逃亡という報せが届きます。
 ヨハネの件とネシャートの逃亡。そこに関連があることを察したヘロデは、もはや動揺を隠すことができません。ネシャートの逃亡先が父アレタス王のいるナバテア国であるのは明らかです。そうなれば戦争は必至です。
 ところでそれまで詳しい事情を聞かされていなかったへロディアはといえば、最初はこの事態に気を失ってしまいまが、正気に返ると、彼女は彼女なりに事態を把握しようと試みます。夫婦は同じ状況にあるいとはいえ、夫との間には完全な意思疎通はできていないようです。ヘロデはネシャートのことを妻にきちんと伝えていなかったのです。それは気遣いだったのかそれともほかに?  へロディアの心に夫に対する疑惑が生じます。

2023年5月31日水曜日

園の存続

  ヨハネの死は、一見ヘロデに好都合なことのようにもみえますが、そうもいきません。ヨハネ殺害の嫌疑が自分に向けられれば、民衆のさらなる離反を招きます。ヘロデには痛しかゆしといったところ。
 いっぽうエッセネの園でも、ヘロデがこの機に乗じて園の壊滅を急ぐのではないかと戦々恐々状態です。この難局をどう乗り切るか。
 まずはヘロデの動向を探るためにフィリポとヤコブ(ヨハネの兄)が故郷のガリラヤに戻って、現地の偵察を志願します。もともとヘロデはガリラヤの領主ですから、情報を得るのによいと考えたのです。
 でももう一つ重要なことがあります。園の存続です。ヨハネは今回の責任をとって筆頭としての役を降りたいと言います。そこで後継にイエスが指名されますが、イエスはきっぱりと断ります。かれが後継指名を断ったというのは、そんな大任を引き受けたくないということではなくて、園の存続にこだわらないということです。かれは、いちばん大事なことはヨハネの遺志を継ぐことだと言います。

2023年5月29日月曜日

ヨハネの遺骸

 12節です。
 皇帝に送った嘆願書に期待を込めたヨハネたちですが、それもむなしく、園に師ヨハネの遺骸が送り付けられてきます。
 弟子たちがヨハネの遺骸を埋葬する場面の描写は長くはありませんが印象的です。でもかれらにはヨハネの死を嘆く時間的な余裕がありません。すぐに対策会議が開かれます。
 その冒頭でヨハネの遺骸の送り手がだれか詮索がおこなわれます。そこでかれらはその送り手がネシャートであるらしいことを突き止めます。でもかれらには時間がありません。早急の対策を迫られます。

2023年5月27日土曜日

ヨハネの首のゆくえ

 首を送り付けたのがネシャートだということを直感したヘロデですが、なんとかその場をとりつくろって宴を続行します。でもひそかに従者に命じて、ヨハネの首のゆくえを捜させます。
 いっぽうネシャート。ヨハネを生還させることが不可能だとわかっていた彼女は、せめてその証にとヨハネの遺骸をエッセネの園に送ることを考えつきます。でもそこは彼女のこと、ヘロデに一泡吹かせてやるために、婚礼の場にヨハネの首を送り付けるという演出を行ったのです。
 困惑するヘロデ。それをあざ笑うネシャート。その対比がおもしろいです。

2023年5月23日火曜日

ネシャートの仕業

  11節です。
 この場面はとてもドラマティックで臨場感があります。
 ヘロデとヘロディアの婚礼の宴が盛り上がったころ、ヘロデの従者がヘロデの耳元に、アレタス王からの祝いの品が届けられたと告げます。ヘロデは怪しいとは思ったものの、成り行きからその贈り物を開けさせます。出てきたのは人の首。
 ヘロデはアレタス王が宣戦布告のしるしとして送り付けてきたヘロデ軍の兵隊の首ではないかと想像します。と、突然そこに薄衣をまとった娘が現れ、ダンスを始めます。それが高潮に達したとき、娘は首を取り上げ、その場を立ち去ります。人々はあっけにとられるばかり……
 これはヘロディアの娘サロメ(マルコの福音書にはその名前は書かれていません)が義父のヘロデにヨハネの首を所望したという有名な話を基にしてますが、小説では娘はサロメではありません。ではいったい誰? 
 それでヘロデは直感します。それはヨハネの首で、送り付けてきたのはネシャートだと。

2023年5月16日火曜日

ヨハネとネシャート

  ネシャートは独房のヨハネを訪ねます。
 そこでの二人の問答はとても面白いです。
 ネシャートは「種の宿らぬ女に命はない」と言います。自分がヘロデから離縁同然に扱われ、もう子供が産めないことを彼女は嘆きます。
 でもヨハネは「わたしは神の胎に入ることができるのだ」とこたえてます。
 え、どういうこと? 神との一体化ってことかな? ネシャートと同じく、わたしには実感がないのでわかりません。でもそこはヨハネ。かれは男女の悦び(エクスタシー?)とは比較にならない悦びをもたらすものだと言います。悦びっていうと、ついエロティックなことを想像してしまいますけど、神との一体化にはそれとは違う悦びがあるということでしょうか? 
 
 でもこの二人の問答の中心テーマは「宿命」です。
 会話の発端は、ネシャートはがヨハネにお互いが同じ宿命を負っていると言うところから始まります。これはネシャートのとんでもない勘違いにみえますけど、でもヨハネはそれを受け止めます。「宿命とは何か」っていうネシャートの問いにヨハネはこう応えます。ちょっと失礼して…

……おまえとわたしとが、こうしていま言葉を交わしていること自体が宿命だ。……とにかくお互いが出会ったということは印象される。それが森羅万象の内で生起しているかぎり、いずれも調和のなかにある。

 敵も味方も宿命の環のなかにあるっていう感じ。う~ん 


2023年5月10日水曜日

ヘロデとネシャート

 10節です。
 場所は前節と同じマカイルス要塞。そこでヘロデは本妻のネシャートの居室を訪ねます。
 前にも触れたように、ネシャートは隣国ナバテアの国王の娘です。これは史実のようですが、詳しいことは知りません。
 物語では不倫の夫と本妻の会話が聞けます。もちろんヘロデが弱い立場であることは当然です。どういう顔して妻の前に立てばいいんでしょう。でもかれがネシャートを訪ねたのは魂胆があるからです。それはヨハネの処遇です。ヘロデはヨハネの身柄をどうすればよいか困っています。ネシャートに聞いてもどうしようもないのに、ふらふらと来てしまった。情けない人ですね。
 でもヘロデの訪問は意外なかたちで「解決」されます。それはネシャートにも魂胆があるからです。彼女にはお父さんのもとに逃亡するっていう計画があるのです。ヘロデとの会話で彼女はその決意を固めます。それにしてもどんな計画なんでしょう。聖書を知ってる人ならすこし想像できそうですね。でもそのように展開するのでしょうか?
 


2023年5月1日月曜日

愛と欲

 第9節に入ります。
 場面は変わってマカイルス城砦。そこは死海に面した隔絶の地です。
 そこに洗者ヨハネが幽閉されています。
 物語は、独房から引き出されたヨハネがヘロデの尋問を受ける場面に移ります。
 ヘロデはヨハネと一対一で向き合い、自分の過去やいまの境遇などを話します。きっとふだんは誰にも言わないことをヨハネに告白したかったのでしょう。
 
 この二人の対話で面白いのは愛についての問答です。
 ヨハネは、ヘロデが言う「愛」は「欲」だと言います。これに対してヘロデは愛と欲はひとつのものだと言います。たしかに愛には崇高な感じがあります。それに対して欲は人間的。
 普通のひとはヘロデのように生きているのではないかしら。ヨハネはそれを頭から否定しているのではなくて、ヘロデの王としての自覚を問題にしているのです。そしてこう言います。「わたしがおまえに言うことは、ただ一言、悔い改めよ」と。
 ヨハネの許しを期待していたヘロデとしては、目算がはずれてしまいました。かれは「この偽善者め!」って捨て科白を吐いて、ヨハネをまた独房に押し込めます。


2023年4月29日土曜日

天上の武器は神の言葉だ

 前からのつづきです。
 ヘロデの攻撃の可能性に対して意見が対立してます。そこでヨハネは二人の意見をまとめてこんなふうに言います。ちょっと失礼して

地上の武器は剣や槍だ。だが、天上の武器は神の言葉だ。それは地上にあっては弱い。……だが天上の勝利はそこにあるのだ。

 天上(神)を信じない人には空しい言葉かもしれませんね。でも人って言葉で生きてるから、地上の戦争だって言葉がだいじな役割をしてるはず。 プロパガンダっていうのもそうでしょ? だからわたしにはこのヨハネの言葉は、ただ理想を語っているだけではなく、大事なことを言っているんだと思います。どんな状況にさらされても神の言葉に信頼して、自分の身の処し方を決めるってことかもしれない。それが信仰っていうもの? そう思うと、あらためて信仰ってなんだろうと考えます。これ、きっととても大事なことですね。

 ところで最後に、ヨハネはまたイエスに意見を求めます。イエスの答えは「逃げること」。逃げるが勝ち? みんなが失笑します。でもヨハネはそれを「隠れること」と言いかえて、時機を待つことと理解します。
 この小説でも、イエスが処刑されたときペトロたちは隠れました。逃げたわけではありません。そして立ち上がるタイミングを見計らっていました。ですからこの箇所は伏線としても読めますね。

2023年4月26日水曜日

緊急会議の招集

  八節に入ります。
 最高法院(サンヘドリン)へ送った訴状ですが、一週間経っても回答なし。
 ヨハネたちは焦ります。次の手を考えるために、ヨハネは評議員による緊急会議を招集します。
 最終的には皇帝への直訴が決まります。執筆を任されたのはナタナエルです。このひと、のちにイエスの十二弟子(物語では十二弟子という括りはないですけど)のひとりになるひとです。学者肌のひとみたい。
 でも皇帝への直訴となると、ヘロデが先手を打って園を攻撃してくる可能性もあって、これは危険な賭けでもあるのです。
 
 ここでもヨハネはイエスに意見を求めています。イエスは、師のヨハネにはメシアの自覚があって、そこにはヨハネが期待するような秘策などはなく、ただ「義」だけをもってヘロデのもとに赴いたのだと言います。
 でも何もしないで師を死地に向かわせるわけにはゆきません。評議員のひとりは、以前いたクムラン僧院の「戦いの規律」というのを取り上げて、ヘロデとの抗戦を主張します。
 これに反論するひともいます。トマスです。このひとものちにイエスの仲間になるひとで、いわゆるイエスの十二弟子のひとりです。物語のなかでこの人、「武器をとって戦えば、その武器で叩かれるものだ」って言います。あれ、これって聖書にあるイエスの有名な言葉ですよね。どうして作者はこの言葉をトマスに言わせているんでしょう?ちょっと気になりますね。

2023年4月24日月曜日

ヘロデの反省

 七節に入ります。
 怒りに任せてヨハネを拘束したものの、ヘロデはちょっと反省します。はたしてあれでよかったかって。ヘロデの懸念はヨハネの弟子たちに訴えられることです。裁判となれば、自分に都合の悪い事実があからさまになって、ローマ総督から自分が罷免されるかもしれないからです。このあたりのやりとりは歴史背景の理解としても面白いので、ぜひ本文で確かめてみてね。
 七節の最後にヘロデの本妻の名前が出てきます。不倫の妻ヘロデアの名前は聖書にしるされていますが、本妻は「ナバテア王の娘」とあるだけで、名前はわかりません。でも名前のない人はいないでしょうから、作者は彼女に「ネシャート」という名前をつけています。この女性は物語が展開していくうえで重要なひとの一人となります。彼女はいまマカイルスにある宮殿に幽閉されています。マカイルスってどこ? それはまた。

2023年4月19日水曜日

ヨハネの憂悶

  ヨハネはさっそく訴状の執筆にとりかかります。
 でも心の中に様々なことが思い浮かびます。なかでも師ヨハネとイエスのことが。
 やがてかれは預言者イザヤの故事に思いを馳せます。その内容は旧約聖書の「イザヤ書」にあります。ヨハネは当時イザヤが体験したことを現在に重ねます。ちょっと失礼して、

イザヤは為政者の愚政にあえぐユダヤの惨状を嘆いていた。ヨハネの脳裡に、荒廃したユダヤの光景がまざまざと浮かんだ。それはまるで今日の情況を描いているかのようであった。まことにそれは終末の惨状であった。だがそこには一条の光が射している ― 昏きを歩む民、大いなる光を見、死の陰地に棲む者の上に光耀けり ― 

 

2023年4月17日月曜日

緊急会議

  六節です。
 フィリポは園に帰るとすぐにヨハネ逮捕を伝えます。
 弟子たちが慌てたのは当然のこと。筆頭のヨハネ(のちにイエスの仲間になるこの有名なひとは、小説ではゼベダイの息子とされています。ゼベダイって誰だっけ?これはいま置いておきます)は全員を集めます。緊急会議の招集です。目的は師ヨハネの奪還です。
 はじめはヘロデに嘆願書を送ってみてはどうかという意見でまとまろうとしますが、異論もあって、先へ進みません。
 そこでヨハネはイエスに意見を求めます。イエスはヘロデが師ヨハネを殺害するだろうという洞察を示して、みんなを驚かせます。

 このあと嘆願書は棚上げされて、最高法院(サンヘドリン)に訴えるという案が示され、それが支持されます。その上申書の執筆をヨハネが引き受けます。

2023年4月13日木曜日

ヨハネvsヘロデ

 それから二人はいよいよヘロデの宮殿に赴きます。ヘロデの容貌がこんなふうに描写されてます。ちょっと失礼して

 かれは黒々とした豊かな髭をたくわえていた。だがその眼は真心というようなものを少しも湛えてはいなかった。鷲のように鋭い目は、むしろ狡猾な性格を表していた。鋭く曲がった鉤鼻は、何事も嗅ぎ漏らすまいとするかのように鼻孔を膨らませていた。

 悪役の人相ですね。さて、いよいよヨハネとヘロデの対決です。
 ヘロデはヨハネを尊大な態度で迎えます。ヨハネは歯に衣着せぬ言葉の刃でヘロデの不倫を責めます。さすがのヘロデも白を切りとおすことはできません。そこでこんな泣き言(ヘロデは気づいてないようですけど)を言います。「女を愛したこともないおまえに何がわかるというのだ。……おれとてどれほど苦しんだことか、おまえなどにはわかるまい」
 これってダメ男のセリフですよね。勝手にしなさい、って呆れます。だからヨハネに「おもえはそれでも領主か」って突っ込まれるんです。
 そう言われてヘロデは怒り出します。そして部下に命じてヨハネを逮捕させます。でもこれってヨハネが仕掛けたことかもしれません。きっとこれも「神の筋書き」なんでしょう。

2023年4月12日水曜日

野卑な者たち

 二人はエルサレムに着くと、まず神殿に赴きます。
 神殿は朝の光をあびて眩しいくらいに耀いています。
 でもヨハネの目にはそれが虚飾に満ちた偶像にしか映りません。
 そういうものって周りにもあるよね、きっと。わたしに見えてるかどうかわからないけど、見える人には見えるってことかな。

 それから二人はいよいよヘロデの宮殿に赴きます。その途中でちょっとした民衆の小競り合いの場面に遭遇します。ここで作者は、ほんのちょっとですが、ヨハネの性格を示す描写をしています。そしてつぎなような思いを吐露します。

わたしはいったい誰のために何をしようというのか? こういう野卑な者たちのためか?
 ヨハネには民衆の野卑な面を嫌悪する性格があります。
 そういえばイエスもあの十字架の上で、「父よかれらをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と、民衆を見下すようなことを言ってます。ただし、これはルカにだけみられる箇所ですから、きっとルカが後からつけた教化的な言葉だとは思いますけど。
 それはともかくとして、こんな気持ちって、インテリな人たちとか、えらいひとたちがもつような上から目線的なものですよね。きっと作者はここでヨハネの性格の限界みたいなものを表したかったのではないかな? 限界というのは当たらないかもしれないけど、ヨハネはイエスと同じ使命感を共有していても、民衆とのかかわり方が違うのかも。イエスは体ごとかかわるけど、ヨハネは頭でかかわってる……って違いかな?

2023年4月10日月曜日

エフライム

 第五節です。
ヨハネはエフライムを出て、エルサレムに向かいます、弟子のフィリポを連れて。
もう二度と見ることのないエフライム。
ヨハネの心情をかりて、筆者はエフライムの歴史的な意義を概観します。この描写は、物語に奥行きを与えていて効果的です。そして最後にこんな美しい描写が出てきます。

そんなヨハネの気持ちをよそに、山道に生える樹木は朝の光を受けて清々しい香気を放っていた。木陰から射す木漏れ陽を浴びて、ヨハネは身が清められるような想いがした。


2023年4月9日日曜日

ヨハネの覚悟

  第四節ではヨハネの弟子のヤコブとフィリポ(二人とも後にイエスの仲間になります)が、エルサレムの町で、在家のひとりから、ヘロデが師ヨハネの逮捕を計画しているという話を聞きます。
 二人はさっそくこの話をヨハネに伝えます。もちろん師ヨハネの身の安全を願ってのことです。ところが意外にもヨハネはそれを「好機」と言うのです。ヨハネにはつぎのような確信があったのです。ちょっと失礼して、

ヘロデ一統の堕落もついに来るところまで来たようだ。だがつぎの王朝は、もはやこの地においては生まれまい。終末の時が来たのだ。

 そして、得意の占星術の知見から得た見通しを語ります。ヨハネはそこで自分ではない「もうひとりの人間」が、やがて到来する神の国を治めるという見通しを語ります。
  それでヨハネは自からすすんでヘロデの邸に出頭しようと言います。
 ヤコブもフィリポもヨハネの言葉に重要な意味があることを感じてますが、納得はできていません。

2023年4月8日土曜日

ヘロデ・アンティパス

 第三節。場面はがらりと変わって、この小説のもうひとりの重要人物ヘロデ・アンティパスが登場します。聖書でもヘロデの不倫を糾弾したことでヨハネが捕らえられ、あげくには首まで取られてしまうという凄惨な場面が描かれていますが、作者はその時代背景をわかりやすく説明してくれていて、とても勉強にもなります。
 第四節からはいよいよヨハネとヘロデの対立劇が始まります。

ひとつの星

  第二節はイエスの受洗だけではなく、先生のヨハネとイエスの会話(問答)がつづいていてとても面白いし、イエスが「人の子」という特別な人格に気づいていくうえで、重要な契機となるような記述がみられます。
 小説ではヨハネは占星術の専門家みたいで、そこも興味深いけど(小説読んでね)、なによりもヨハネがイエスに「ひとつの星」について語るところが、さっき言った「重要な契機」となるところです。

わたしは律法に記された星のことを考えると、おまえのことが思い浮かぶ。そこに何か宿命的なものを予感するのだ

 こう言って、ヨハネはイエスにその星がイエスであることをほのめかします。


2023年4月6日木曜日

イエスの受洗

  第二節に入ります。
 場所はヨルダン川のほとり。有名なイエスの受洗の場面です。

 朝から大勢の人たちがヨハネから浸礼(洗礼)を受けようとして集まってきます。
 イエスもその手伝いで、朝から大忙し。そして最後にイエスも浸礼を受けます。
 この有名な場面は、どの福音書でも(マルコを含めて)ヨハネの謙遜の言葉が書かれています。マルコでは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と書かれてます。そうして神の霊(聖霊)が鳩のようにイエスの頭上に降りてきた、とつづきます。とても厳かな場面です。

 ここで共通しているのは、イエスとヨハネが深く関わっていたというのがわかることです。作者の竹内さんはご自身のブログ(2013.5.15-5.16の記事)で、「このイエスとヨハネの格差は逆に読み解くべきだろう……イエスはヨハネの弟子という師弟関係があったと思われる」と書いてます。
 とても面白い視点だと思います。もちろん小説もこの視点から書かれていて、第二章全体がヨハネの逮捕から獄死にいたるまでの経過をめぐって、イエスを含む弟子たちが右往左往しながら、やがて「エッセネの園」の解散にいたるまでを語ってくれます。とてもドラマチックで、小説としても面白い展開になっています。

受洗の申し出

  ヨハネが戻ってきました。
 イエスはヨハネに受洗を申し出ます。ここの二人の会話もおもしろいです。
 形式を嫌うはずのイエスがなんでまた洗礼なんていう形式にこだわるのって感じ。

 わたしも高校生になったとき周囲のすすめで洗礼(バプテスマ)を受けました。教会の講壇の前の床が小さなプール(それともお風呂?)になっていて、そこに水がいっぱい満たしてあるんです。牧師がなにか決まった宣言みたいことを言って、わたしの口と鼻をタオルで押さえてから、仰向けに水に浸すのです。たしかに独特な感覚です。これって何だろう、みたいな。それから着替えがすむと、みんなから「おめでとう」って祝福されるんだけど、わたしの内心はけっこう複雑でした。たしかにうれしかったんだけど、これで何が変わるんだろうって冷めた自分もあったみたい。

 さて、イエスが受洗を望んだ理由は、師ヨハネの弟子であることの証を「かたち」として記憶しておきたかったことです。案のじょうヨハネは洗礼は「おまえが嫌うかたちというものではないか」と突っ込みます。イエスは「かたちと形骸とはちがう」と返します。
 わたしの受洗はどっちだったのかな。


2023年4月4日火曜日

律法がそれだ

 「定規で測る」ことそのものを疑ったイエスですが、その対象はずばりユダヤの「律法」です。イエスはそこで律法を批判します。 
律法がそれだ。律法こそ、あなたのいう「よくできた定規」だ。ところがその精確さを追求した結果が、ひとの生活を縛ってしまったのではないか。……だからいっそ定規など使わずに、素手で現実にぶつかたほうが、むしろ律法の精神にかなうというものではないか。
 イエスは律法がもたらす支配者たちの偽善を告発し、それが民衆を縛っていることに憤っているのです。
 でもこの無政府主義者みたいなこの発言にヨハネは、「おまえは素手と言うが、それもひとつの定規ではないか」と切り返します。
 問答はそこで終わってます。でも考えさせられますね。そこが小説の肝かもしれませんね、考えさせられるってことが。
 ここでは、律法つまり法律ってなんだろうというのと、あとひとつはヨハネが言った「それもひとつの律法ではないか」という批判。いま世界中で良心的なひとたちが拘束されているけど、これこそイエスが告発しているのと同じことだよね。でもキリスト教だって、権力の座につくと教義という律法を盾にして民衆を弾圧したのだし、アメリカ福音派の原理主義なんてコチコチの律法主義だし……神を疑うってことは、そんな人間の身勝手な「神学」を疑うってこと。イエスが「素手」って言ったのは、つまり自分の頭を使って現実を見なさいってことになるのかな……
 なんだかごちゃごちゃになってきちゃったので、このくらいにします。
 
 

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...