二人はエルサレムに着くと、まず神殿に赴きます。
神殿は朝の光をあびて眩しいくらいに耀いています。
でもヨハネの目にはそれが虚飾に満ちた偶像にしか映りません。
そういうものって周りにもあるよね、きっと。わたしに見えてるかどうかわからないけど、見える人には見えるってことかな。
それから二人はいよいよヘロデの宮殿に赴きます。その途中でちょっとした民衆の小競り合いの場面に遭遇します。ここで作者は、ほんのちょっとですが、ヨハネの性格を示す描写をしています。そしてつぎなような思いを吐露します。
わたしはいったい誰のために何をしようというのか? こういう野卑な者たちのためか?ヨハネには民衆の野卑な面を嫌悪する性格があります。
そういえばイエスもあの十字架の上で、「父よかれらをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と、民衆を見下すようなことを言ってます。ただし、これはルカにだけみられる箇所ですから、きっとルカが後からつけた教化的な言葉だとは思いますけど。
それはともかくとして、こんな気持ちって、インテリな人たちとか、えらいひとたちがもつような上から目線的なものですよね。きっと作者はここでヨハネの性格の限界みたいなものを表したかったのではないかな? 限界というのは当たらないかもしれないけど、ヨハネはイエスと同じ使命感を共有していても、民衆とのかかわり方が違うのかも。イエスは体ごとかかわるけど、ヨハネは頭でかかわってる……って違いかな?
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