2017年10月30日月曜日

裏切り者ユダ

 さてゲッセマネです。聖書でも最後の晩餐がおわったあと、イエスは弟子たちを連れてここへやってきます。ここで弟子たちが眠ってしまいます。どうして夜中にこんな淋しいところへ来るのでしょう? 弟子たちが眠ってしまうのは、これからイエスの身に起こることを知らないからですけど、イエスだけはそれを知っています。
 なぜイエスは知ってるのでしょう? 神の子だから? そこをよく読むと、イエスは逮捕されるのがわかっていてゲッセマネに来たのは明らかです。晩餐の席でユダの裏切りを見抜いていたイエスですから、イエスはわざわざここへ来たんです。
 聖書にはこう書いてあります。「……時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者がきた。」(マルコ福音書1441-42

イエスは神の子だからユダの裏切りはわかっていたけど、人々を救うために十字架にかけられるために、すすんで逮捕されたんだってこと。聖書に書いてあることはそういうことだけど、でもわたしにはどうしても不自然で、あとからうまくまとめられたって感じが残るんです。
  ユダの裏切りが本当なら、イエスはユダにだまされて連れ出されたのじゃないかな? 
  そしてまんまと逮捕されてしまった。それが事件の真相。だからユダは裏切り者だったっていえば、ずうっと納得がゆきます。

でも小説のほうもリアルです。イエスとユダはつながっていたというんですから。それってアリですね。だからこの小説おもしろいんです。
 

2017年10月29日日曜日

サウロだ

 そこでユダは、イエスをゲッセマネで逮捕させるかわりに、「仲間を一人、法廷で傍聴させよ」といいます。それはペトロです。そのあと、ユダは審問官に「差支えなければ、あんたの名前を訊いておきたい」と言うと、審問官が「サウロだ」と答えます。

サウロってわかります? あのパウロのことです。
  これまでいやなヤツって思ってた審問官がなんとあのパウロだなんて!

サプライズですよね。でもパウロって最初はイエスの仲間を捕えていじめていた人ですから、作者がそういうキャラクターで書くのもうなずけますね。
 

2017年10月27日金曜日

*****

 聖書で有名なゲッセマネですが、なかなか現地には行けませんよね。作者の竹内さんは行ったことあるのかな? でも今と当時では時代も違いますよね。とにかく作者によるゲッセマネの描写はとてもイイ感じです。でもここは割愛して先に進みます。
 
 情景描写のあと、ユダと審問官とのやりとりの場面が挿入されます。けっこう長いです。そのなかでイエスを逮捕して殺すためには、ユダヤ側で裁くだけではダメで、イエスをローマに引き渡す必要があるというんです。それでイエスにちょっとしたお芝居をさせて、「このひとローマに反抗しましたよ」って逮捕して、ローマ側に突きだそうというんです。

 でもローマに逆らったら大変です。イエスの仲間まで全員逮捕されてしまいます。そのことをユダがいうと、審問官はだいじょうぶって言うんですけど、ほんとにだいじょうぶなんでしょうか?


2017年10月26日木曜日

ゲッセマネ

 7節に入ります。
 ここは有名なゲッセマネの場面です。聖書では疲労で居眠りしている弟子たちのそばで、イエスがたったひとり「父よ、どうかこの杯をわたしから取りのけてください」って祈る場面です。
 こんな絵みたことありませんか?


 人間であるイエスの苦しみが告白される場面で、まるで処刑されるまえの死刑囚のような心境がこちらにもひしひしと伝わってきます。
 教会の説教では、ひとり祈るイエスとそのそばで眠りこけるダメな弟子たちという対比で、信者に「あなたもこの弟子たちのように眠りこけてはいませんか」なんてお説教されたりします。
 もうひとつ、これにつづくイエスの言葉「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」というのから、神さまに従うことの大切さが説かれたりします。
 でも神さまの御心(みこころ)なんてだれにもわかりません。そんなことをあの熱心党のシモンさんがイエスに言ってましたよね。イエスはなんて答えてましたっけ?


2017年10月25日水曜日

さよならラボニ


さて、イエスはお供のペトロといっしょに「マリアの家」を出ます。
 するとイエスの妻のマリハムがあとを追っかけてきます。

 「わたしに別れも告げずに行ってしまうの?」と、かの女は言った。
 顔は微笑んでいた。マリハムはイエスに近づくと、結っていた髪をほどいた。長い髪が波打つようにこぼれた。それからかの女は、イエスが被っていた頭巾(クフィア)を脱がした。そしてイエスの唇にそっと接吻した。イエスは何も言わず、かの女の為すがままにさせた。
 「さよならラボニ」

まだ描写はつづきますけど、このくらいで。
 マリハムはイエスのまえで女としてふるまってみせます。かわいいでしょ。
 でもとっても悲しくて切ない場面です。わたしここを読むと泣いちゃうんです。
 ぜひ小説を読んで味わってみてください。

2017年10月24日火曜日

みな杯を取ってくれ


いよいよ晩餐もおわり。イエスが言います。

「みな杯を取ってくれ。これがおれからの餞別(せんべつ)だ」

この場面は教会では聖餐式といわれるところでしょう。わたしがまえに通っていた教会では必ず次の箇所が読まれました。
「取りなさい、これはわたしの体である。」
すると配られたパンのかけらを口に入れて食べます。つぎにブドウ酒が入った小さな杯を持って、
「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」
と言われると、一口ブドウ酒を飲むんです。
パンとブドウ酒はイエスの肉と血を表しています。教会の人ならおわかりでしょうけど、はじめての人には何のことだかわかりません??? それにちょっと気味がわるいでしょ。人の肉と血ですものね。わたしは小さいころから通ってましたから、とくに違和感はもちませんでしたけど、でもいまから考えるとちょっと変な感じがします。宗教儀式ってそういうものかもしれませんけど。

小説にもどります。ここでのイエスはこれが肉だ、これが血だなんて言ってません。ただ「餞別だ」と言ってるだけ。でもとてもシンプルでリアルです。ほんとうはこんなだっかもしれないなって思わせます。これなら別れの盃みたいなものですから、わたしたちにもよくわかります。
 

 

2017年10月23日月曜日

一粒の種

「重要なこと」は以前ユダにだけそっと伝えたのです。
それをユダがペトロにだけ漏らしたことがあったから、のちにマルコがペトロから聞くことができた(バトンリレーみたいに)のです。
「神殿は屍(しかばね)のうえに立っている。神殿の地下にはどれだけの屍が横たわっていることか。ヨハネも殺害され、屍になってしまった。おれもいずれそうなるだろう。だがその累々と横たわる屍の中から、何かがむっくりと起き上がってくるに違いない。おれはそのためにここで一粒の種になろうと思う……」
ぞっとするような話を聞かされたユダはどう思ったことでしょう。
「一粒の種」というのは、聖書の有名な箇所を思い出させます。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書1224節)

教会の説教などではいろんな比喩として使われますけど、本来はやっぱりイエスが自分の死を暗示した言葉ですね。だからイエスはみんなに「伏せた」んです。だってもしも明らかにすれば、みんなが引きとめるにちがいないから。

2017年10月22日日曜日

******

シモンの挑発的な問いにイエスはのりません。でもみんなに向って言います。
長いので一部省きます。
「……かれらは病める者たちにも貧しい者たちにも寄り添わず、ただ貢税を搾り取って、自分たちを肥え太らせているだけだ。おれがここへ来たのは、かれらにそのことを分らせてやるためだ。……だがかれらは耳を傾けるどころか、おれを排斥しようとしている。だからおれはここを去ることにしたのだ」
そこにいる人たちはみな、それがエルサレムを去る理由だと理解してほっとします。
だってイエスが重い腰をあげたのですから。
でも「イエスの言葉には重要なことが伏せられていた。」とつづくのです。

つづきはまた。

2017年10月21日土曜日

おれは今日でここを去る

イエスが晩餐の終了を告げたあとも、もうしばらくこの場面はつづきます。
イエスはこう言います。
「みな聴いてくれ。おれは今日でここを去る。お前たちも知ってのとおり、おれは官憲に狙われている。だがおれが心配しているのはお前たちのことだ。おれの巻き添えをくって、お前たちまで逮捕されてはかなわぬ。だからしばらくの間、おれに構わないでくれ。おれはここを去るが、お前たちはここに残れ」
みんなはイエスの真意を測りかねています。でもイエスが自分から「ここ」を去るというんですから、とりあえずよかったと思ったんです。でも「ここ」はじつはエルサレムではなくて、「この地上」のことなんです。勘違いしたシモン(熱心党のシモン)がまた絡みます。
「師よ、貴方はなぜエルサレムに来たのか? 日ごろ神殿を強盗の巣だと批難していた貴方のことだ。おれはもう少しここで立ち回ってくれるものと思っていたのだが……それに師よ、貴方はときどき、自分はいつか死ぬと言っていた。それはこのエルサレムの話ではないのか……」
挑発的な発言です。シモンはまだイエスに革命家みたいなことを期待しているみたい。だから、あなたは尻尾をまいて逃げるんですかって言いたいんでしょう。


2017年10月19日木曜日

ユダは何処へいったの?

さて先へ進みます。
晩餐もそろそろ終わりになるころ、ユダがイエスの耳元で何かを告げて、先に出てゆきます。
ユダの目的を知っているのはイエスのほかにはペトロだけです。
ユダは仲間とすぐに落ち合って、ゲッセマネに向います。
場面は晩餐の場面に戻ります。「ユダは何処へ行ったの?」と聞く妻のマリハムに、イエスはさりげなく「用を済ますためだ」と答えます。
ここからマリハムの内心(心理描写)がくわしく描かれます。彼女は何かを直感しているのです。とてもいいところですけど、長いので引用はできません。ぜひ小説を読んでみてください。

そのあと、イエスが晩餐の終了を告げます。このつづきはまた。

2017年10月18日水曜日

精一杯生きよ

まえのつづき。シモンは言います。
「幻? そうかも知れぬ。何の応えも返って来ないのはそのためだったかもしれぬ……」
 そうだよね。神なんてまぼろしだよねって思いきや、
「まだ分らぬか。応えがすでにあることを」「応えがすでにあると? おれは運動に挫折した男だ」「同じことだ。お前はここにいるではないか。それが応えだ。神の心とはそういうものだ」
 そう、もうすでに生かされてるんだってこと。ほかになにがいるのって。
 その命を大切にして精一杯生きよって、それが神の心の実践だって、そうイエスは言ってるんです。
そう思うと、イエスの死は、死ぬことじゃなくて、生きることだったんだなって、思えるんです。

ちがうかな?

2017年10月17日火曜日

神は幻にすぎぬ

昨日のところをすこし巻き戻します。
お前がガリラヤで闘ったことは少しも無益なことではない」と言うイエスに、シモンは「どうして無益でなかったと言えるのか?」と突っ込みます。ちょっと失礼して……
 「……そう言えるのは貴方が神の子、いや人の子だからか?」 「そうではない。神の子であれ、人の子であれ、神の心というものはこれだと言って示すことはできぬ。お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜しても見つかるまい。お前が希望を託した神は幻にすぎぬ」
 これって、すごい言葉でしょ。以前はわたしも神がどこかにいると思っていました。でも祈っても、かなえられるものとはかぎりません。いいえ、ほとんどかなえられないです。かみさま助けてくださいって祈っても、助けてもらえないことはちょっちゅうあります。神さまなんていない。そう思います。ほんとに。シモンもそう思ったでしょう。そう言うと、それはあなたの祈りが足りないからですとか、そのうち答えがありますとか言われるんですけど、しょうじき信じられません。
 でもイエスが(もちろん小説のなかですけど)「お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜しても見つかるまい」と言うのを聞くと、まるで自分に言われているように思えるんです。それどういうこと?って聞きたくなるんです。

2017年10月16日月曜日

それが応えだ

またはぐらかしでおわり? でもここは一度立ち止まって考えたいところです。
原爆で傷ついた方々はきっと「なぜ、自分が?」と問い続けておられるんじゃないでしょうか? でも簡単に傷が癒されるなんてことはないでしょう。
だれも「なぜ」という問いに答えてくれません。「しょうがなかった」なんていった大臣もいましたけど。でもイエスは「応えはすでにある」と言うんです。「お前はここにいるではないか。それが応えだ」と。これ、はぐらかしなんかじゃありません。ここには、たしかにそうだなって思わせるものがあります。どんなかたちであっても、いま生きているってとても素敵なこと
 とにかくいま生きている。イエスは「神の心とはそういうものだ」と言います。わたし、自分のことをふりかえってみて、そうだねって思うんです。
でもここでひとつ大切なことを飛ばしてしまいました。それはまた。

2017年10月15日日曜日

神の心

シモンの質問をはぐらかした?イエス。でも、ちゃんと聞いてます。
しばらくしてイエスは言います。
「シモン、お前がガリラヤで懸命に闘ったことは少しも無益なことではない。お前はそのとき神の心を直に実践していたのだ」
小説の第4章でシモンの過去がくわしく語られますけど、シモンはガリラヤで解放運動に参加して、奥さんまでなくしてさんざんな目にあったのです。それなのに、神は何もこたえてくれません。だからシモンは神に問いただしたいのです。かれは必死なんです。

イエスはそれを無視しているわけではありません。この後につづく二人の会話はとても重要です。それは日をあらためてまた。

2017年10月14日土曜日

人の子にすぎぬ

神の御心なぞ、おれたちが忖度できるものではないのだ」というイエスの答えに納得のゆかないシモンはまた問いかけます。
「師よ、貴方は神の子と呼ばれているではないか?」「いや、人の子にすぎぬ」「どう違うのだ?」「言ったとおりだ」
イエスは自分が「神の子」と呼ばれるのを否定して「人の子」と呼んでます。
日本人なら神と人はぜんぜん違うから不思議じゃないけど、ユダヤ人は人の子といえば神の子とほとんど同じみたい。これ受け売りですけど、聖書(もちろん日本語の)の最後に「用語解説」っていうのがあって、そこに「人の子」っていうのが、ちゃんとあります。なんて書いてあるかっていうと、「メシア(キリスト)を指す述語」で「イエス自身の呼び名」だそうです。
だからシモンにはイエスが言い換えただけに聞えたのです。神の子も人の子も同じ意味じゃないかって。そうただしているんです。でもイエスは「言ったとおりだ」なんて煙に巻いてます。つづきはまた。

2017年10月5日木曜日

熱心党のシモン

最後の晩餐の場面でおもしろいのは、熱心党のシモンの絡みです。
この人、れっきとした12弟子の一人。でもネームヴァリューが低くて、そんな弟子いたのって感じです。でもこの小説がおもしろいのは、そんなマイナーなひとがクローズアップされているところです。ちなみにこのひと、第4章ではほとんど主役です。ユダとふたりのダブルキャストで。
さてシモンはイエスにききます。長いセリフなので、短く要約します。
「おれはずっと運動に関わってきた。……だがそのために妻を喪った。そういうおれにユダは、『恨むなら神を恨め』と言ってくれた。だが神を恨んだところで、おれの罪が消えるわけでもないし、死んだ仲間たちが蘇るわけでもない。師よ、教えてくれ。神はおれたちの望み、ガリラヤ人の期待に、ほんとうに応えてくれるのか」
シモンにはとても切実な問いです。イエスはしばらくして答えます。
「シモン、おれにはお前が望むように答えてやることはできぬ。神の御心なぞ、おれたちが忖度(そんたく)できるものではないのだ」 
それを聞いてシモンはまた問います。つづきはまた。


2017年10月3日火曜日

ユダのために乾杯しよう

さて最後の晩餐はまだつづいています。
イエスは「今宵の祝宴を設けてくれたのはユダだ」と言って、「ユダのために乾杯しよう」と呼びかけます。この小説ならではのユダにたいする評価です。

でもこの乾杯にはイエスとユダだけの「暗黙の了解」が隠されています。だからこの乾杯は祝福というより、別れの盃みたいな意味もあるのです。それを知っているのは、ほかにはペトロだけです。奥さんのマリハムにも知らされてません。ちなみにマリハムはわたしたちがよく知っているマグダラのマリアのことです。

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...