六節です。
フィリポは園に帰るとすぐにヨハネ逮捕を伝えます。
弟子たちが慌てたのは当然のこと。筆頭のヨハネ(のちにイエスの仲間になるこの有名なひとは、小説ではゼベダイの息子とされています。ゼベダイって誰だっけ?これはいま置いておきます)は全員を集めます。緊急会議の招集です。目的は師ヨハネの奪還です。
はじめはヘロデに嘆願書を送ってみてはどうかという意見でまとまろうとしますが、異論もあって、先へ進みません。
そこでヨハネはイエスに意見を求めます。イエスはヘロデが師ヨハネを殺害するだろうという洞察を示して、みんなを驚かせます。
このあと嘆願書は棚上げされて、最高法院(サンヘドリン)に訴えるという案が示され、それが支持されます。その上申書の執筆をヨハネが引き受けます。
2023年4月17日月曜日
緊急会議
2023年4月13日木曜日
ヨハネvsヘロデ
それから二人はいよいよヘロデの宮殿に赴きます。ヘロデの容貌がこんなふうに描写されてます。ちょっと失礼して
かれは黒々とした豊かな髭をたくわえていた。だがその眼は真心というようなものを少しも湛えてはいなかった。鷲のように鋭い目は、むしろ狡猾な性格を表していた。鋭く曲がった鉤鼻は、何事も嗅ぎ漏らすまいとするかのように鼻孔を膨らませていた。
悪役の人相ですね。さて、いよいよヨハネとヘロデの対決です。
ヘロデはヨハネを尊大な態度で迎えます。ヨハネは歯に衣着せぬ言葉の刃でヘロデの不倫を責めます。さすがのヘロデも白を切りとおすことはできません。そこでこんな泣き言(ヘロデは気づいてないようですけど)を言います。「女を愛したこともないおまえに何がわかるというのだ。……おれとてどれほど苦しんだことか、おまえなどにはわかるまい」
これってダメ男のセリフですよね。勝手にしなさい、って呆れます。だからヨハネに「おもえはそれでも領主か」って突っ込まれるんです。
そう言われてヘロデは怒り出します。そして部下に命じてヨハネを逮捕させます。でもこれってヨハネが仕掛けたことかもしれません。きっとこれも「神の筋書き」なんでしょう。
2023年4月12日水曜日
野卑な者たち
二人はエルサレムに着くと、まず神殿に赴きます。
神殿は朝の光をあびて眩しいくらいに耀いています。
でもヨハネの目にはそれが虚飾に満ちた偶像にしか映りません。
そういうものって周りにもあるよね、きっと。わたしに見えてるかどうかわからないけど、見える人には見えるってことかな。
それから二人はいよいよヘロデの宮殿に赴きます。その途中でちょっとした民衆の小競り合いの場面に遭遇します。ここで作者は、ほんのちょっとですが、ヨハネの性格を示す描写をしています。そしてつぎなような思いを吐露します。
わたしはいったい誰のために何をしようというのか? こういう野卑な者たちのためか?ヨハネには民衆の野卑な面を嫌悪する性格があります。
そういえばイエスもあの十字架の上で、「父よかれらをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と、民衆を見下すようなことを言ってます。ただし、これはルカにだけみられる箇所ですから、きっとルカが後からつけた教化的な言葉だとは思いますけど。
それはともかくとして、こんな気持ちって、インテリな人たちとか、えらいひとたちがもつような上から目線的なものですよね。きっと作者はここでヨハネの性格の限界みたいなものを表したかったのではないかな? 限界というのは当たらないかもしれないけど、ヨハネはイエスと同じ使命感を共有していても、民衆とのかかわり方が違うのかも。イエスは体ごとかかわるけど、ヨハネは頭でかかわってる……って違いかな?
2023年4月10日月曜日
エフライム
第五節です。
ヨハネはエフライムを出て、エルサレムに向かいます、弟子のフィリポを連れて。
もう二度と見ることのないエフライム。
ヨハネの心情をかりて、筆者はエフライムの歴史的な意義を概観します。この描写は、物語に奥行きを与えていて効果的です。そして最後にこんな美しい描写が出てきます。
そんなヨハネの気持ちをよそに、山道に生える樹木は朝の光を受けて清々しい香気を放っていた。木陰から射す木漏れ陽を浴びて、ヨハネは身が清められるような想いがした。
2023年4月9日日曜日
ヨハネの覚悟
第四節ではヨハネの弟子のヤコブとフィリポ(二人とも後にイエスの仲間になります)が、エルサレムの町で、在家のひとりから、ヘロデが師ヨハネの逮捕を計画しているという話を聞きます。
二人はさっそくこの話をヨハネに伝えます。もちろん師ヨハネの身の安全を願ってのことです。ところが意外にもヨハネはそれを「好機」と言うのです。ヨハネにはつぎのような確信があったのです。ちょっと失礼して、
ヘロデ一統の堕落もついに来るところまで来たようだ。だがつぎの王朝は、もはやこの地においては生まれまい。終末の時が来たのだ。
そして、得意の占星術の知見から得た見通しを語ります。ヨハネはそこで自分ではない「もうひとりの人間」が、やがて到来する神の国を治めるという見通しを語ります。
それでヨハネは自からすすんでヘロデの邸に出頭しようと言います。
ヤコブもフィリポもヨハネの言葉に重要な意味があることを感じてますが、納得はできていません。
2023年4月8日土曜日
ヘロデ・アンティパス
第三節。場面はがらりと変わって、この小説のもうひとりの重要人物ヘロデ・アンティパスが登場します。聖書でもヘロデの不倫を糾弾したことでヨハネが捕らえられ、あげくには首まで取られてしまうという凄惨な場面が描かれていますが、作者はその時代背景をわかりやすく説明してくれていて、とても勉強にもなります。
第四節からはいよいよヨハネとヘロデの対立劇が始まります。
ひとつの星
第二節はイエスの受洗だけではなく、先生のヨハネとイエスの会話(問答)がつづいていてとても面白いし、イエスが「人の子」という特別な人格に気づいていくうえで、重要な契機となるような記述がみられます。
小説ではヨハネは占星術の専門家みたいで、そこも興味深いけど(小説読んでね)、なによりもヨハネがイエスに「ひとつの星」について語るところが、さっき言った「重要な契機」となるところです。
わたしは律法に記された星のことを考えると、おまえのことが思い浮かぶ。そこに何か宿命的なものを予感するのだ
こう言って、ヨハネはイエスにその星がイエスであることをほのめかします。
2023年4月6日木曜日
イエスの受洗
第二節に入ります。
場所はヨルダン川のほとり。有名なイエスの受洗の場面です。
朝から大勢の人たちがヨハネから浸礼(洗礼)を受けようとして集まってきます。
イエスもその手伝いで、朝から大忙し。そして最後にイエスも浸礼を受けます。
この有名な場面は、どの福音書でも(マルコを含めて)ヨハネの謙遜の言葉が書かれています。マルコでは「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と書かれてます。そうして神の霊(聖霊)が鳩のようにイエスの頭上に降りてきた、とつづきます。とても厳かな場面です。
ここで共通しているのは、イエスとヨハネが深く関わっていたというのがわかることです。作者の竹内さんはご自身のブログ(2013.5.15-5.16の記事)で、「このイエスとヨハネの格差は逆に読み解くべきだろう……イエスはヨハネの弟子という師弟関係があったと思われる」と書いてます。
とても面白い視点だと思います。もちろん小説もこの視点から書かれていて、第二章全体がヨハネの逮捕から獄死にいたるまでの経過をめぐって、イエスを含む弟子たちが右往左往しながら、やがて「エッセネの園」の解散にいたるまでを語ってくれます。とてもドラマチックで、小説としても面白い展開になっています。
受洗の申し出
ヨハネが戻ってきました。
イエスはヨハネに受洗を申し出ます。ここの二人の会話もおもしろいです。
形式を嫌うはずのイエスがなんでまた洗礼なんていう形式にこだわるのって感じ。
わたしも高校生になったとき周囲のすすめで洗礼(バプテスマ)を受けました。教会の講壇の前の床が小さなプール(それともお風呂?)になっていて、そこに水がいっぱい満たしてあるんです。牧師がなにか決まった宣言みたいことを言って、わたしの口と鼻をタオルで押さえてから、仰向けに水に浸すのです。たしかに独特な感覚です。これって何だろう、みたいな。それから着替えがすむと、みんなから「おめでとう」って祝福されるんだけど、わたしの内心はけっこう複雑でした。たしかにうれしかったんだけど、これで何が変わるんだろうって冷めた自分もあったみたい。
さて、イエスが受洗を望んだ理由は、師ヨハネの弟子であることの証を「かたち」として記憶しておきたかったことです。案のじょうヨハネは洗礼は「おまえが嫌うかたちというものではないか」と突っ込みます。イエスは「かたちと形骸とはちがう」と返します。
わたしの受洗はどっちだったのかな。
2023年4月4日火曜日
律法がそれだ
イエスは律法がもたらす支配者たちの偽善を告発し、それが民衆を縛っていることに憤っているのです。律法がそれだ。律法こそ、あなたのいう「よくできた定規」だ。ところがその精確さを追求した結果が、ひとの生活を縛ってしまったのではないか。……だからいっそ定規など使わずに、素手で現実にぶつかたほうが、むしろ律法の精神にかなうというものではないか。
でもこの無政府主義者みたいなこの発言にヨハネは、「おまえは素手と言うが、それもひとつの定規ではないか」と切り返します。
問答はそこで終わってます。でも考えさせられますね。そこが小説の肝かもしれませんね、考えさせられるってことが。
2020年6月11日木曜日
ヨハネの「不足」
「師よ、あなたの見る世界はおれには拵え物としか思えない」「光と闇、善と悪……世界はそのように単純に割り切れるものか」。これに答えるヨハネの言葉も考えさせられます。とてもいい部分ですからぜんぶ書き写したいところですけど、一部だけ写してみます。ちょっと失礼して……
はたしておまえが言うように、世界が光と闇、善と悪から成り立っているかどうかは、たしかに定かではない。しかし世界を見通すためには、よくできた定規が必要だ。……それが世界をうまく説明し、それだけではなく、人が生きていくうえで、指針として役立つものであるなら、その定規は有効なものと考えてよいのではないか?
ヨハネは世界を解釈するのに、けっこう冷めた目でみてます。でも解釈を否定するんじゃなくて、その解釈の有効性に目をつけてます。でもイエスはそもそも世界を定規で測ることそのものを疑います。「定規で測ることによって、見えるものが見えなくなってしまうこともある」から。クリスチャンはクリスチャンの視点で世界をとらえます。それが有効なこともきっとあるでしょう。でもそのために大切なことをとらえそこなうこともあるにちがいないと思います。いまのアメリカの福音派のクリスチャンみたいに原理主義に傾くと、世界をとんでもない視点でとらえてしまうという誤りをおかします。かれらはそれが正しいと思ってるんでしょうが(たとえばハルマゲドンをぜったいに信じてるとか)、それが世論にさえ影響するとなれば、世界をそれこそ地獄におとしかねません。
第2章について
『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。 本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...
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イエスが晩餐の終了を告げたあとも、もうしばらくこの場面はつづきます。 イエスはこう言います。 「みな聴いてくれ。おれは今日でここを去る。お前たちも知ってのとおり、おれは官憲に狙われている。だがおれが心配しているのはお前たちのことだ。おれの巻き添えをくって、お前たちまで逮...
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4節です。 その日 ―― 過越祭を控えたある日 ―― ユダは、神殿内にあるサンヘドリン(最高法院)に出向いた。 いよいよユダは神殿に乗り込んでゆきます。サンヘドリンはユダヤの国会や最高裁のようなところなんでしょう。権力と権威の中枢。 神殿といえば、現在では「...