2020年6月11日木曜日

ヨハネの「不足」


イエスは先生のヨハネを尊敬しながらも、「不足」も感じてます。それはヨハネに「民衆に馴染まないところ」がみられるから。それにクムラン僧院の独善性に批判的でも、いぜん世界を光と闇とか善と悪とかにわけてみてるところ。イエスはヨハネに言います。
 「師よ、あなたの見る世界はおれには拵え物としか思えない」「光と闇、善と悪……世界はそのように単純に割り切れるものか」。これに答えるヨハネの言葉も考えさせられます。とてもいい部分ですからぜんぶ書き写したいところですけど、一部だけ写してみます。ちょっと失礼して……
 はたしておまえが言うように、世界が光と闇、善と悪から成り立っているかどうかは、たしかに定かではない。しかし世界を見通すためには、よくできた定規が必要だ。……それが世界をうまく説明し、それだけではなく、人が生きていくうえで、指針として役立つものであるなら、その定規は有効なものと考えてよいのではないか?

 ヨハネは世界を解釈するのに、けっこう冷めた目でみてます。でも解釈を否定するんじゃなくて、その解釈の有効性に目をつけてます。でもイエスはそもそも世界を定規で測ることそのものを疑います。「定規で測ることによって、見えるものが見えなくなってしまうこともある」から。クリスチャンはクリスチャンの視点で世界をとらえます。それが有効なこともきっとあるでしょう。でもそのために大切なことをとらえそこなうこともあるにちがいないと思います。いまのアメリカの福音派のクリスチャンみたいに原理主義に傾くと、世界をとんでもない視点でとらえてしまうという誤りをおかします。かれらはそれが正しいと思ってるんでしょうが(たとえばハルマゲドンをぜったいに信じてるとか)、それが世論にさえ影響するとなれば、世界をそれこそ地獄におとしかねません。


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