2020年5月21日木曜日

第二章


 いよいよ第二章です。
 まえにも書きましたが、この章は第一章のつづきではありません。時間が前にさかのぼっていて、イエスがまだ先生のヨハネのところにいたころの話になっています。場所はヨハネ(あのバプテスマのヨハネです)が創設した「エッセネの園」やヨハネが逮捕されて閉じ込められる「マカイロス城塞」など、見どころがいっぱい。先生のヨハネと弟子のイエスの対話を聞くこともできます。
 この章はストーリー展開がとてもおもしろくて、ドラマティックに描かれています。ぜひ小説をよんでみてください。
第2章表紙


2020年5月17日日曜日

澄みきった秋空の下


 澄みきった秋空の下、漣がガリラヤの湖岸を洗っていた。湖上には幾艘もの舟が立ち、漁師らが漁労に精を出しているのが見える。湖水は陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。マルコが手を翳して見上げると、眩しいほどに光が零れてきた。かれは湖水を渡って吹いてくる湖風(うみかぜ)を胸一杯に吸い込んだ。
 すがすがしい描写ですね。かれはこれから土地の人々の話を聞き取りにでかけるんでしょうね、きっと。かれはすでに先生のペトロからいろんな「証言」をもらっていましたが、実際に現地取材が必要だと考えたのでしょう。ちょうど研究者がおこなうフィールドワークのように。
 さて一章がおわりました。つぎの章で、このつづきが描かれると思いきや、時間はいっきょに過去にさかのぼって、洗礼者ヨハネがイエスの先生として登場します。マルコは? とにかくつぎから二章にはいります。

2020年5月16日土曜日

糞の門


 「……あゝ、ガリラヤに帰りたいね」
 そう言いのこして去ってゆく男の背にむかって、ペトロは「あの門を何と言うのかね?」ってききます。男は「糞の門だ」って言って、振り返りもせずに去ってゆきます。
 それにしても糞の門なんて、ずいぶんひどい名前。そんな門が実際にあったんですね。ペトロは、昨晩イエスといっしょにゲッセマネに向かったとき、この門から出て行ったことを思い出します。ちょうどトラックを一周したみたいに。その間にいろんな出来事が起こりました。でもいいことはなにひとつなし。イエスは殺され、その遺体も消えてしまいました。ペトロは重い腰をあげます。
ペトロはそれから半日かけて塵芥の山を廻り、師の遺体を捜した。他人にも麻袋を見かけなかったか訊いてみた。それらしいものはあったが、中身が違っていた。
 かれは糞の門から城壁の中に戻ってゆきます。そこはユダが住んでいたアクラという貧民窟。
(もしやユダはそこに帰っていないか)微かな期待を込めて、ペトロは「隠れ家」のほうに向かって歩んでいった……
 第一章の回想部分はここでおわって、ふたたびガリラヤの湖畔に立つ老マルコに戻ります。そこはつぎに……

2020年5月6日水曜日

浮浪者とおぼしき男

 途方にくれるペトロ。
かれは頭を抱えた。すると「おい、どうした」という声がした。見上げると、浮浪者とおぼしき男が立っていた。  
 このひといったいだれ? 本文には「男は更けて見えるが、意外に若いのかも知れぬ……年齢はよくわからなかった」とあります。復活したイエス? まさか! 復活したイエスならもうすこし見栄えがいいでしょ?(それだったらありきたりかもしれないけど)
 でもこの場面のふたりの会話が面白い。わけわかんなくなっているペトロと男のやりとりは、どこかお笑い風?
 でもやっぱりこの男には何かがありそう。言葉のなまりからガリラヤのひとだというのがペトロにわかります。とにかく不思議なひとです。
 でもこのひと、あとでペトロに大きな意味を与えてくれる人ですから重要なキャラであることはたしかです。


2020年5月3日日曜日

たしかにあったのだ


ペトロが目を覚ますと、辺りはすでに明るくなっていた。
 ペトロは寝過してしまったようです。暗闇の中では見えなかった周りのようすが、いまははっきり見えます。でもそこはスルーして……なんとイエスの遺体が入った麻袋がありません。
(たしかにあったのだ、四人の兵隊に担がれてきた遺体が。おれは師の傍にいたのだ……)
 え? なにか悪い夢でも見てたの? それともペトロが寝てる間に、だれかが麻袋を盗っていってしまったの? でもあったはずのものが無いってこと、わたしにも経験があります。長い間行方不明だった道具が、ある日見つかったことがありました。「ああこんなところにあったんだ」って喜んだのもつかのま、しばらく経ってから、さてあの道具は……って見ると、また見当たらなくなってしまったんです。それでそのときはあきらめて、そのうち出てくるだろうって思ってましたが、その後ぜんぜん出てこないんです。いまだに行方不明。でもこんなミステリアスな経験、だれにもあるんじゃないかな。
 とにかくペトロは意気消沈。このあとどうなるのかしら?


2020年5月1日金曜日

いっさいを見届けていた者


さて兵隊たちはイエスの遺体を共同墓地に遺棄したあと、すぐに立ち去っていきます。
と……
だがこの光景のいっさいを見届けていた者がいた。
だれだと思います? ペトロです。かれはイエスのそばにいようと、墓で一夜を明かすつもりでいたのです。そこへ兵隊たちが突然現れたので身を隠したのです。その後かれは兵隊たちの跡をつけてゆきました。そして兵隊たちが去ったあと、すぐにイエスの遺体がはいった麻袋のそばにきたのです。でもあたりは真っ暗ですから袋の中をたしかめることはできません。手の感触で遺体が入っていることを確認しただけです。
すでに雨は止んでいた。だが辺りは、まるで洞窟の中のような漆黒の闇に包まれていた。遺体を担いでまた墓に戻ることは到底できなかった。……今できることは、とにかく夜が明けるまで遺体の傍にいることであった。
こうしてペトロはイエスの遺体が入った麻袋のそばで、昨日からの出来事を思い出しながら眠りにおちてゆきます。このあたりの作者の描写はとてもリアルで、読んでいて引き込まれます。


2020年4月30日木曜日

共同墓地


さてピラトの命令を受けた四人の兵隊たちは、イエスの遺体を麻袋にいれて「共同墓地」まで運んでゆきます。そこは「城壁の南、ヒンノムの谷にある塵芥(ごみ)の集積地」で、「身元の不確かな処刑者はそこに遺棄されるのが常であった」と書かれています。途中は雨後のぬかるみ道で、兵隊たちはもう大変。でもなんとか辿り着きます。そこは「世の中の穢れという穢れがここにすべて集められたような観を呈している」ようなおぞましいところ。そんなところにイエスは棄てられたのです。

もちろんこれは作者の想像ですが、イエスの復活をこんな風に物語ってみせてくれたのはとても興味深いことです。これは単純に「真相はこうだ」みたいなものとは似て非なるものです。それは復活という事件が単純なことではないという認識から生まれた真剣な想像だと思います。ふつうクリスチャンは復活をまるごと信じていて、疑うことは不信仰だみたいにとらえているようですが、わたしは疑ったからって、それで信仰に反しているとは思いません。疑うことで理解できることだってあると思うから。じゃあどう理解するのっていうと、イエスなら「聴く前に自分で考えよ」って言うんじゃないかしら。きっと作者は真剣に考えているんだとおもいます、復活という出来事を。だからわたしには作者の想像がとても興味深く感じられるんです。

2020年4月29日水曜日

ピラトが案じた一計


さて第1章の最終節14節です。この節は小説としてとても面白いし、これが契機になってつぎに大きな意味をもってくるので、その意味でも重要な節です。
こんなふうに始まります……
その夜、アントニア城塞にいる総督ピラトの前に四人の兵隊が招集されていた。それはピラトが案じた一計を実行に移すためであった
どうして一計を案じたかというと……イエスを葬り去ったユダヤの祭司たちが、イエスの甦りを心配して、兵隊にイエスの墓をみはってほしいとピラトに頼みにきたことからはじまります。ピラトは最初断りますが、祭司たちが安息日が明けるまでは墓には行けないってゴネるので、ピラトは思案したあげくに「一計」を案じるんです。
その「一計」とは、イエスの墓を守ることではなくて、イエスの遺体をひそかに運び出して「共同墓地」に棄てるというのです。一夜明ければ墓はもぬけの殻。祭司たちの鼻をあかしてやるにはいいアイデアだってピラトは考えたのです。

2020年4月28日火曜日

時空を超えて響いて来るような……


ヨセフは内心ではもうイエスの側にいました。いまもむかしもお役人や肩書のあるひとって、立場上自分の本心を打ち明けることがむずかしいんですね。でもヨセフがえらいのは、イエスの遺体の引き取りを申し出たことです。こんなこと上司に見られたりだれかに告げ口されたらヤバいでしょ。自分でもそう考えてしまったらきっと心にブレーキをかけてしまうでしょう。でも十字架にかかって死んでゆくイエスをみて心が動いたんだと思う。その場に立ち会ってないからわからないけど、とにかくすごいことだったんでしょう。でもヨセフにしてみれば自分が情けなかったのでしょう。かれはため息をつきます。それにつづく描写がすてきです。まるでかれの心を表しているようです。
角笛(ショファル)の音が ― それはまるで時空を超えて響いて来るような、ユダヤの古(いにしえ)を偲ばせる物悲しい調べであった ― 過越しの一日の終わりを告げていた。ヨセフは従者に命じて墓の入口を閉じさせた。
さてこのあと、ヨセフとマリハムたちは連れだって帰路につくんんですが、ベタニアの宿舎(マルタの家)までは遠いし、道は暗いので、それを気づかったヨセフは、「今夜は家に泊まりなさい」と勧めます。マリハムは「お言葉どおりに」とこたえます。こうして13節がおわります。

2020年4月25日土曜日

聴く前に自分で考えよ


ヨセフは告白します。自分が体制側にあっても、「この人のことは他人事には思えなかったのだ」って。だからイエスの説教を聴きに行ったというんです。マルコがイエスの追っかけだったのと似てます。ちょっと失礼して……
じつはわたしは一度、この人に訊ねてみたことがある。『貴方が神殿を批難する真意は何か』と。するとこの人は言った。『聴く前に自分で考えよ』と。そして、『聴くことのなかに答えはあるものだ』と。
ヨセフは「なるほどと思った」と書いてあります。たしかにそういうことってありますね。ヨセフは内心ではもう神殿体制が壊れかけていることを知ってたんです。
こういうことって歴史ではたびたびありますね。まえのシステムが古くなって、それを改革しなければならないことが。イエスはそういう時点に立ってものを言ってたんです。だから聞く耳がある人なら、イエスが正しいことを言ってるのがわかるんです。これっていまの政治にもいえそう。原発にしたって、戦争にしたって。こんなのもう止めましょう!

2020年4月24日金曜日

わたしはヨセフという者

「わたしはヨセフという者。いまはサンヘドリンの議員をしておるが、もとはアリマタヤの者だ。アリマタヤをご存知か?」
ヨセフはこう言って自己紹介をはじめます。小説に書かれてますが、アリマタヤはサマリアに属したところで、小説には「高名な預言者が生まれたところ」とあります。高名な預言者ってだれだっけ? ちょっと調べてみたらサムエルでした。教会に連れていかれていたころ、教会でみる「聖画」(絵葉書みたいなの)に巻き毛のかわいい男の子が手をあわせて祈っているのがあったけど、そのモデルがサムエルでした。それはともかく、マリハムにとって驚きだったのは、ヨセフがサマリア人で、しかもサンヘドリンの議員だったことです。聖書ではサマリア人はユダヤ人から差別の対象にされている人たちです。(イエスの有名なたとえばなしに「よきサマリア人」というのがありますが、そこで語られている大切なことは、人々が差別や偏見を超えていくことです。)でもヨセフはそんな土地の出身者でありながら、ユダヤの最高機関であるサンヘドリンの議員になったんですから、さぞや克己心のつよいひとなんでしょう。
でもマリハムにしてみれば、かれは夫を殺した体制側のひとです。だからヨセフの身分を知ったとき、彼女が驚いたのは当然です。でもヨセフがマリハムたちをじっと見ていたように、マリハムもヨセフがイエスの遺体を引き取って、お墓に入れるところまでずっと見ていたんです。そのすがたにマリハムのこころが動かされなかったはずはありません。だからヨセフがたとえ体制側のひとだと知っても、イエスが差別や偏見を乗り越えていくことをめざしたように、マリハムも権力側のヨセフとの間にある壁を乗り越えようとする姿勢をみせているんです。「なんじの敵を愛せ」って、こういうことかも知れない。

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...