2017年8月31日木曜日

運命の巡り合わせ

ユダはこんなふうに感じています。ちょっと失礼して……
ユダは窓に目をやった。アーチ型に切り取られた大窓の向うに、晴れ渡った午後の空が広がっているのが見えた。だがユダは自分が牢獄に繋がれた囚人のように思えた。いや囚人のほうがまだましだった。自分にはその良心さえ見出せなかった。この神の宮で愚かにも、怖しい密談をしていたのだと思うと、なさけない気がした……
でもユダは大仕事をしたのではないの? 胸を張るってわけにはゆかなくても、イエスと仲間のためにがんばったはずでしょ。でもこの節のはじめのところで「いま自分がここにいることが、自分の意思ではなく、何者かの意思によってすでに決定されているような、そんな運命の巡り合わせを感じるのであった……」と書いてあって、なにかフクザツなものを感じさせます。

歴史のなかでは、大物に仕える人が身をささげて自分を滅ぼしていくということがありますよね。

ユダはそんな歴史に埋もれた名もない人たちの代表かもしれない。
でも名前は残りました。でも悪名なのが気の毒。作者はこの小説でユダの名誉回復をはかったのかもしれませんね。


2017年8月28日月曜日

ユダの狂言

ユダはいよいよ審問官との間で「取引」を提案します。
審問官は書記官を退出させて、1対1で向かい合います。
おれはあんたたちの望みをかなえてやるためにここへ来たのだ
こんなふうに切り出したユダは、
イエスさえ始末すれば、やつに群がる連中は泡のように消えてしまうだろう。
そううそぶきます。そして……
万が一、やつの始末がついた後に、やつの追随者たちが反乱でも起こしそうな気配が見えたら、その時はまたおれが真っ先にここへ来よう
そう言って、審問官をすっかりだましてしまうのです。
もちろんユダの狂言ですよ。聖書ではほんとうみたいに書かれてますけど。
ユダは金でイエスを売ったのではありません。売ったふりをして、
イエスの望みをかなえ、あとに残る者たちが逮捕されたりしないようにしたのです。

 でもユダには大仕事をしたことの満足感はありません。
そのあたりのユダの気持ちがこの後書かれます。それはまた。

2017年8月24日木曜日

審問官

二人の男がユダを迎えた。一人は審問官、もう一人は書記官であることをユダに告げた。審問官は三十歳くらいの頭が禿げかかった片目が斜視の小男で、書記官は控え目で律義そうな男であった。
この人物紹介、とくに審問官は、じつは重要人物です。だれかわかりますか? 今度のテストに出るかも……
それはともかく、ユダは時間をかけて審問官とやりとりします。
審問官はイエスの行動を批判して、そんなことをして喜ぶのはヘロデ(ユダヤ側の支配者)やローマのほうではないかと言ってユダを諭します。
たしかに言えてるところはあるけど、ユダは心の中で反発します。
だがそういう理屈で人々を支配するかれらの性根は穢いと思われた。人々から搾りとった貢税で自分たちの懐を肥やしておきながら、人々を見下すことが許せなかった。
 でもユダは抗議するためにここに来ているのではないことを肝に銘じています。
 それで心の中とは真逆のことを口に出すのです。
おれがここに来たのはあの男の疑いを晴らすためではない。

 きょうはここまでにします。


2017年8月23日水曜日

サンヘドリン

4節です。
その日 ―― 過越祭を控えたある日 ―― ユダは、神殿内にあるサンヘドリン(最高法院)に出向いた。
いよいよユダは神殿に乗り込んでゆきます。サンヘドリンはユダヤの国会や最高裁のようなところなんでしょう。権力と権威の中枢。
神殿といえば、現在では「嘆きの門」を残すくらい。でも、いろんな史料でおおよその復元はできるんでしょうね。作者はそういうのを参考にしながら神殿内の様子を描写しているのかな?
神殿の地階に議場とか役所みたいところがあります。その「奥の小部屋」にユダは案内されます。
部屋はこれといった調度もなく、中央に方形の卓子があって、その卓子を挟んで椅子が二脚ずつ置かれていた 
きょうはここまでにします。

2017年8月21日月曜日

イエスの策略

ユダがイエスに希望を託したのは、さきにイエスにある「策略」があったから。
この節ではまだその中身は書かれてないけど、イエスは命とひきかえに何かとてつもないことを考えていたみたい。それをいちはやく察知したのがユダ。それでユダは、イエスの策略を成就させるために、一役かったっということね。
それともうひとつは、イエスの死後に組織をつくるための準備をすること。イエス一人の意志だけが遂げられ、組織が守られること ―― それが、ユダが自分に課した使命であった。
ユダは裏切り者なんかじゃないのね。
こうしてユダは単身(ひとり)秘密裏に神殿側と接触することにしたのである。
ユダは神殿に乗り込んでいきます。 これで3節がおわります。


2017年8月20日日曜日

カリオテのユダ

ユダはふつうはイスカリオテのユダと呼ばれますが、小説では「カリオテのユダ」となっています。イス(イーシュ)は男性を意味するそうで、カリオテは地名ですから、イスカリオテは「カリオテ出身の男」の意味みたい。それでイスを省いて、カリオテのユダになってるんですね。カリオテはユダヤ地域の村の名だそうで、たしかに小説でもユダは「よそ者」になってます。

ユダは熱心党のシモンとも親しく(第4章では二人の緊密な関係がえがかれます ―― ご期待ください)、ガリラヤ地方の反ローマ活動にかかわっていました。そんな二人がイエスの仲間に入っているのですから、神殿派はイエスを危険人物とみなします。だからあの神殿で起こった事件をイエスの仕業にしようと企んでるんです。

でもユダがイエスに近づいたのは、反ローマ運動にイエスを引きずりこむためでないんです。ユダにはこんな思いがありました。ちょっと失礼して……

結局、神殿体制を壊したところで、それがローマを利することは明らかであった。第一、ローマとの繋がりで強固に護られた神殿体制が容易に崩せるはずもなかった。 ―― それこそ今度の事件が如実に示したことである ―― いや、そういう見通しがあればこそ、ユダはイエスにある希望を託したのであった。  
どんな希望だったのか、このつづきでね。

2017年8月17日木曜日

逮捕の計画

さて神殿側の人たちはこの事件を利用して、イエスを逮捕しようと計画します。でも簡単には手が出せません。民衆を敵にまわすことを怖れているためです。
イエスの仲間たちもイエスが逮捕されることを心配して、イエスにエルサレムから離れるように勧めます。もちろんイエスは何もしていません。でもイエスに類が及ぶことを怖れたのでしょう。
それには理由があります。イエスの仲間たちに熱心党の者がいたからです。たしかに聖書にも弟子のひとりにシモンという人がいます。このひと第4章で大きく取りげられますけど、それはまた先のこと。

ここではシモンといっしょにユダの名前があがってきます。いよいよ第1章の中心人物の登場です。


2017年8月16日水曜日

宮の清め

宮の清めというのは、イエスにしてはめずらしい暴行です。こんな神聖な場所を商売で汚すなんて、ここを「強盗の巣」にすることはで許さないぞ!(小説には書いてありません) 
すごい剣幕で台や腰掛けをひっくり返します。
こんなことをすれば、いまならすぐに逮捕されますよね。でもイエスは民衆を味方につけていたから、警備の人たちも手がだせなかったのね。でもこれをきっかけに、祭司長や律法学者はイエスを殺そうとします。
これが聖書に書かれていることだけど、マルコの11章に。でも「マルコによれば」では、騒ぎを起こしたのはイエスではなくてガリラヤからきた「盗賊たち」になってます。「『盗賊』たちは両替屋から奪った金品を懐にして、あとは散り散りになって逃走していった」って書いてありますから、かれらはお金めあてに暴行をはたらいたのでしょう。その濡れ衣をきせられたのがイエスというわけです。
でも作者がそうした理由はなんでしょう?
聖書の記事の方がストレートでわかりやすいですよね。宮の清めというのは後からつけた意味だとしても、神殿の境内で暴行をはたらいたというのはとてもリアルだから、ほんとうにあったように思えます。でもガリラヤから来た強盗たちっていうのも、なにか意味ありそうですね。あとで出てくる熱心党かもしれないし。
でもイエスの暴行も、なんだか突然キレた感じもしますね。むかしのお父さんみたいに、気に食わないと言ってちゃぶ台ひっくりかえしたみたいに。マルコはそれをお祓いの儀式みたいな意味にしたのかも。でもそれならリアルじゃなくなりますね。わけわかんないけどキレちゃったほうが、リアルですよね。

わたしのかってな想像だけど、作者はイエスひとりの仕業ではなくて、ガリラヤからきた人たち(盗賊にカギかっこつけて「盗賊」にしてますから、本物の盗賊じゃないってことですね)の仕業にすることで、もっと社会背景とか時代背景とかいったものを取り込みたかったのではないかな? 

 ちょっとあとで気がついたんだけど、神殿の境内で商売している人たちを追い払うなんて、イエスらしくないと思いません? みんないっしょうけんめいに生活している人たちでしょ。もちろんあこぎな商売をしている人もいるかもしれないけど、取税人だって娼婦だって、祭司や律法学者なんかよりもずっと神の国にちかいって言った人です。犠牲のハトを売る人も、両替屋さんも必要でしょ、神殿には。日本でも祭日のお寺の前で屋台が出てるみたいに。だったらそんな人たちを「ここは神聖な場所だ。おまえたちはそれを強盗の巣にしているぞ。ここから出ていけ」なんて言う? 言うとしたら、魅力ないよね、そんなイエスに。



2017年8月13日日曜日

事件

3節です。
事件が起こったのはそんな折だった ――
いきなりです。
そのあと、神殿の境内で「盗賊」たちが引き起こす騒動が活き活きと描かれます。映画のシーンをみているようです。
物が散乱し、金銭が撒き散らされ、動物たちが逃げまどい、何百羽という鳩が人々の頭上を飛び交っていた。境内は人々の叫喚や悲鳴で騒然となった。
神殿の警備兵だけでは収拾できない事態に、いよいよローマ軍が介入してきます。
彼らは境内に駆けつけるや、馬上の指揮官の号令一下、一斉に剣を振りかざして逃げまどう人々の上に襲い掛かった。人々は門に殺到した。だが門はすでに閉ざされていた。その前で大勢の者が押し倒され、圧死する者たちがいた……
  
 これは聖書では「イエスの宮清め」(マルコ1115-19の場面に相当するのでしょうか? もしそうだとしたら、なぜ作者はイエスではなく「盗賊」に変えたのか、それがよくわかりません。


2017年8月11日金曜日

共通の敵

2節は神殿勢力の動きを描いておわります。
神殿の者たちは苛立っていた。かれらにしてみれば、律法にもとづいた秩序の安寧を維持することは自分たちの義務であり、神の前に疾しいところはない筈だった。だが、しばしば衆目の前で行われた問答において、イエスの対応が正鵠(せいこく)を射たものであることは認めざるを得ない事実であった。しかしそれがかれらには許せなかった。 
組織に縛られたひとたちが陥りやすいジレンマですね。この人たちはいつもは仲がわるいくせに、イエスを「共通の敵」にして同盟するんです。このひとたちというのは「祭司たちとファリサイ派の者たち」です。聖書にもイエスの敵として、よく登場しますね。


2017年8月9日水曜日

目当てはイエス

そんなイエスを見て、マルコはどう思ったのでしょう。ちょっと失礼して……
マルコはますますイエスに傾倒した。イエスの現れるところにはいつでもマルコは出掛けて行った。そのときはまだペトロのことはよく知らなかった。何しろ目当てはイエスだったのだ。とにかく若いマルコはイエスに心酔していた。
 その気持ちよくわかります。尊敬できる人がみつかってよかったねマルコ。やがてイエスは殺されてしまうけど、元気なイエスの姿に接することができたマルコはラッキーだったと思います。

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...