2017年11月6日月曜日

サンヘドリンの法廷

 8節に入ります。

エルサレムの天空に満月がかかっていた ――
  ユダヤの新年を祝福するように、月影が神殿の金色の屋根を照らしていた。家々では人々がまだ眠りを貪っている時刻であった。

過越し祭が始まります。

でもこの大切な祭日にイエスの裁判が開かれるんです。しかも違法な裁判です。
  裁判の場面を描いたこの節は、つぎの節と合わせて第1章の圧巻ともいえます。丁寧な描写で、読者を裁判の場面にいるかのように引き込んでくれます。
  
 やがてゲッセマネで逮捕されたイエスが法廷に連行されてきます。つづきはまた。



2017年11月5日日曜日

シモンよ、さらばだ

 このあと、祭司はしぶしぶイエスの言葉にしたがいます。それから……

 「シモンよ、さらばだ」とユダは言って、ペトロに接吻した。
     それからシモンは、もう一度イエスを見た。イエスが、うなずいた。」

 これはひょっとしたら作者のミスかもしれません。イエスをもう一度見たのは、シモン(ペトロ)ではなくて、ユダではないかな? きっとユダは名残おしかったんです。だからイエスの姿をしっかり目に焼き付けておきたかったんでは? それにイエスもちゃんとこたえてます。


 このあとは、ユダの心境がのこされた「手記」というかたちで紹介されます。
  長いのでちょっとだけ……
「……おれは『主よ、赦してくれ』と心の中で何度も叫んだ。そのとき『お前はなすべきことを果たしたのだ』という師の声が聴こえた。……たとえおれに裏切り者の汚名が着せられようと、それはおれの本望だ。おれは地面にぬかずき、接吻した。そうしてようやく立ち上がることができた。去りゆく師とペトロの後姿を見ながら思った。これで良かったのだと……」



2017年11月3日金曜日

剣を収めよ

 祭司の命令でイエスが連れていかれるとき、ユダが「待て」と言って、ペトロがついてゆくっていう約束を守らせようとします。ところが祭司はこれを無視します。
 ユダはカチンときて「何!」って叫ぶと、祭司についてきた警備兵が剣を抜いたんです。

が、つぎの瞬間、ユダの従者の一人が、背後から警備兵が腰に差した短剣を奪うや、それを祭司の喉元に突き付けた。一瞬の出来事であった。
 
ユダって、こういう手下を使うことができるんでしょう。でもそこにイエスが入ります。


するとイエスが「剣を収めよ」と、言った。
  それから祭司に向って、
  「おれは逃げはせぬ。だから約束は守れ」と、諭すように言った。

これって、有名な場面です。ペトロが剣で相手の耳を切り落とすっていうすごい場面。マタイ福音書ではイエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」って有名な言葉をいいます。
  でもこのあと、弟子たちはみんなイエスを残して逃げてしまうんです。
  ああなんてなさけない人たちでしょうって思うように書かれているわけ。
  でも小説の方は同じような場面でもぜんぜん違います。その違いが面白いんです。


2017年11月2日木曜日

イエスはだれか?

   約束どおり、祭司と神殿警備兵が松明をかかげてやってきます。

「待たせたな」
  祭司はそう言うと直ぐに、「イエスはだれか?」と訊いた。
  ユダがイエスに近づき、「師よ」と言って、自分の唇をイエスの唇に押しあてた。イエスはユダを抱きしめた。

 
男の人同士のキスです。しかもイエスはユダを抱きしめたんです。
 きっとそれはユダに対する感謝を表したのでしょう。そういえば妻のマリハムもイエスにキスしました。でもイエスは彼女を抱きしめなかった。なぜかな? それはおいて、このあとハプニングがおこります。それはまた。

2017年11月1日水曜日

奈落の底

 小説に戻ります。
 イエスとユダは先にゲッセマネに着いています。ユダはすでに何人かの仲間をそこに待機させています。おそらく約束を破られたときの用心のためでしょう。

「季節は春の到来を告げていたとはいえ、夜風は冷たかった。立っていると底冷えがした。そこに居合わせた者たちはみな肩をすぼめ、押し黙ったまま、奈落の底を覗き込む人のように項垂れていた。」

情景が目に浮かぶようです。でもそれだけではなく、そこにいる人たちの心も冷え込んでしまっているのが伝わってきます。イエスもペトロもユダもとても緊張しているんです。それにこれから逮捕されて死んでしまうことが分かっていれば、心の中は真っ暗にちがいありません。「どうかこの杯をわたしから取りのけてください」っていうイエスの言葉を、作者はリアルな状況設定で巧みに描きだしいていると思います。
 わたしは神の子というより、人間であるイエスのほうが好きです。絶望の底でうめいているイエスが。それがほんとうの神の子なんです、きっと。作者はそう言ってるように思います。


2017年10月30日月曜日

裏切り者ユダ

 さてゲッセマネです。聖書でも最後の晩餐がおわったあと、イエスは弟子たちを連れてここへやってきます。ここで弟子たちが眠ってしまいます。どうして夜中にこんな淋しいところへ来るのでしょう? 弟子たちが眠ってしまうのは、これからイエスの身に起こることを知らないからですけど、イエスだけはそれを知っています。
 なぜイエスは知ってるのでしょう? 神の子だから? そこをよく読むと、イエスは逮捕されるのがわかっていてゲッセマネに来たのは明らかです。晩餐の席でユダの裏切りを見抜いていたイエスですから、イエスはわざわざここへ来たんです。
 聖書にはこう書いてあります。「……時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者がきた。」(マルコ福音書1441-42

イエスは神の子だからユダの裏切りはわかっていたけど、人々を救うために十字架にかけられるために、すすんで逮捕されたんだってこと。聖書に書いてあることはそういうことだけど、でもわたしにはどうしても不自然で、あとからうまくまとめられたって感じが残るんです。
  ユダの裏切りが本当なら、イエスはユダにだまされて連れ出されたのじゃないかな? 
  そしてまんまと逮捕されてしまった。それが事件の真相。だからユダは裏切り者だったっていえば、ずうっと納得がゆきます。

でも小説のほうもリアルです。イエスとユダはつながっていたというんですから。それってアリですね。だからこの小説おもしろいんです。
 

2017年10月29日日曜日

サウロだ

 そこでユダは、イエスをゲッセマネで逮捕させるかわりに、「仲間を一人、法廷で傍聴させよ」といいます。それはペトロです。そのあと、ユダは審問官に「差支えなければ、あんたの名前を訊いておきたい」と言うと、審問官が「サウロだ」と答えます。

サウロってわかります? あのパウロのことです。
  これまでいやなヤツって思ってた審問官がなんとあのパウロだなんて!

サプライズですよね。でもパウロって最初はイエスの仲間を捕えていじめていた人ですから、作者がそういうキャラクターで書くのもうなずけますね。
 

2017年10月27日金曜日

*****

 聖書で有名なゲッセマネですが、なかなか現地には行けませんよね。作者の竹内さんは行ったことあるのかな? でも今と当時では時代も違いますよね。とにかく作者によるゲッセマネの描写はとてもイイ感じです。でもここは割愛して先に進みます。
 
 情景描写のあと、ユダと審問官とのやりとりの場面が挿入されます。けっこう長いです。そのなかでイエスを逮捕して殺すためには、ユダヤ側で裁くだけではダメで、イエスをローマに引き渡す必要があるというんです。それでイエスにちょっとしたお芝居をさせて、「このひとローマに反抗しましたよ」って逮捕して、ローマ側に突きだそうというんです。

 でもローマに逆らったら大変です。イエスの仲間まで全員逮捕されてしまいます。そのことをユダがいうと、審問官はだいじょうぶって言うんですけど、ほんとにだいじょうぶなんでしょうか?


2017年10月26日木曜日

ゲッセマネ

 7節に入ります。
 ここは有名なゲッセマネの場面です。聖書では疲労で居眠りしている弟子たちのそばで、イエスがたったひとり「父よ、どうかこの杯をわたしから取りのけてください」って祈る場面です。
 こんな絵みたことありませんか?


 人間であるイエスの苦しみが告白される場面で、まるで処刑されるまえの死刑囚のような心境がこちらにもひしひしと伝わってきます。
 教会の説教では、ひとり祈るイエスとそのそばで眠りこけるダメな弟子たちという対比で、信者に「あなたもこの弟子たちのように眠りこけてはいませんか」なんてお説教されたりします。
 もうひとつ、これにつづくイエスの言葉「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように」というのから、神さまに従うことの大切さが説かれたりします。
 でも神さまの御心(みこころ)なんてだれにもわかりません。そんなことをあの熱心党のシモンさんがイエスに言ってましたよね。イエスはなんて答えてましたっけ?


2017年10月25日水曜日

さよならラボニ


さて、イエスはお供のペトロといっしょに「マリアの家」を出ます。
 するとイエスの妻のマリハムがあとを追っかけてきます。

 「わたしに別れも告げずに行ってしまうの?」と、かの女は言った。
 顔は微笑んでいた。マリハムはイエスに近づくと、結っていた髪をほどいた。長い髪が波打つようにこぼれた。それからかの女は、イエスが被っていた頭巾(クフィア)を脱がした。そしてイエスの唇にそっと接吻した。イエスは何も言わず、かの女の為すがままにさせた。
 「さよならラボニ」

まだ描写はつづきますけど、このくらいで。
 マリハムはイエスのまえで女としてふるまってみせます。かわいいでしょ。
 でもとっても悲しくて切ない場面です。わたしここを読むと泣いちゃうんです。
 ぜひ小説を読んで味わってみてください。

2017年10月24日火曜日

みな杯を取ってくれ


いよいよ晩餐もおわり。イエスが言います。

「みな杯を取ってくれ。これがおれからの餞別(せんべつ)だ」

この場面は教会では聖餐式といわれるところでしょう。わたしがまえに通っていた教会では必ず次の箇所が読まれました。
「取りなさい、これはわたしの体である。」
すると配られたパンのかけらを口に入れて食べます。つぎにブドウ酒が入った小さな杯を持って、
「これは、多くの人のために流されるわたしの血である」
と言われると、一口ブドウ酒を飲むんです。
パンとブドウ酒はイエスの肉と血を表しています。教会の人ならおわかりでしょうけど、はじめての人には何のことだかわかりません??? それにちょっと気味がわるいでしょ。人の肉と血ですものね。わたしは小さいころから通ってましたから、とくに違和感はもちませんでしたけど、でもいまから考えるとちょっと変な感じがします。宗教儀式ってそういうものかもしれませんけど。

小説にもどります。ここでのイエスはこれが肉だ、これが血だなんて言ってません。ただ「餞別だ」と言ってるだけ。でもとてもシンプルでリアルです。ほんとうはこんなだっかもしれないなって思わせます。これなら別れの盃みたいなものですから、わたしたちにもよくわかります。
 

 

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...