2017年10月23日月曜日

一粒の種

「重要なこと」は以前ユダにだけそっと伝えたのです。
それをユダがペトロにだけ漏らしたことがあったから、のちにマルコがペトロから聞くことができた(バトンリレーみたいに)のです。
「神殿は屍(しかばね)のうえに立っている。神殿の地下にはどれだけの屍が横たわっていることか。ヨハネも殺害され、屍になってしまった。おれもいずれそうなるだろう。だがその累々と横たわる屍の中から、何かがむっくりと起き上がってくるに違いない。おれはそのためにここで一粒の種になろうと思う……」
ぞっとするような話を聞かされたユダはどう思ったことでしょう。
「一粒の種」というのは、聖書の有名な箇所を思い出させます。
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書1224節)

教会の説教などではいろんな比喩として使われますけど、本来はやっぱりイエスが自分の死を暗示した言葉ですね。だからイエスはみんなに「伏せた」んです。だってもしも明らかにすれば、みんなが引きとめるにちがいないから。

2017年10月22日日曜日

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シモンの挑発的な問いにイエスはのりません。でもみんなに向って言います。
長いので一部省きます。
「……かれらは病める者たちにも貧しい者たちにも寄り添わず、ただ貢税を搾り取って、自分たちを肥え太らせているだけだ。おれがここへ来たのは、かれらにそのことを分らせてやるためだ。……だがかれらは耳を傾けるどころか、おれを排斥しようとしている。だからおれはここを去ることにしたのだ」
そこにいる人たちはみな、それがエルサレムを去る理由だと理解してほっとします。
だってイエスが重い腰をあげたのですから。
でも「イエスの言葉には重要なことが伏せられていた。」とつづくのです。

つづきはまた。

2017年10月21日土曜日

おれは今日でここを去る

イエスが晩餐の終了を告げたあとも、もうしばらくこの場面はつづきます。
イエスはこう言います。
「みな聴いてくれ。おれは今日でここを去る。お前たちも知ってのとおり、おれは官憲に狙われている。だがおれが心配しているのはお前たちのことだ。おれの巻き添えをくって、お前たちまで逮捕されてはかなわぬ。だからしばらくの間、おれに構わないでくれ。おれはここを去るが、お前たちはここに残れ」
みんなはイエスの真意を測りかねています。でもイエスが自分から「ここ」を去るというんですから、とりあえずよかったと思ったんです。でも「ここ」はじつはエルサレムではなくて、「この地上」のことなんです。勘違いしたシモン(熱心党のシモン)がまた絡みます。
「師よ、貴方はなぜエルサレムに来たのか? 日ごろ神殿を強盗の巣だと批難していた貴方のことだ。おれはもう少しここで立ち回ってくれるものと思っていたのだが……それに師よ、貴方はときどき、自分はいつか死ぬと言っていた。それはこのエルサレムの話ではないのか……」
挑発的な発言です。シモンはまだイエスに革命家みたいなことを期待しているみたい。だから、あなたは尻尾をまいて逃げるんですかって言いたいんでしょう。


2017年10月19日木曜日

ユダは何処へいったの?

さて先へ進みます。
晩餐もそろそろ終わりになるころ、ユダがイエスの耳元で何かを告げて、先に出てゆきます。
ユダの目的を知っているのはイエスのほかにはペトロだけです。
ユダは仲間とすぐに落ち合って、ゲッセマネに向います。
場面は晩餐の場面に戻ります。「ユダは何処へ行ったの?」と聞く妻のマリハムに、イエスはさりげなく「用を済ますためだ」と答えます。
ここからマリハムの内心(心理描写)がくわしく描かれます。彼女は何かを直感しているのです。とてもいいところですけど、長いので引用はできません。ぜひ小説を読んでみてください。

そのあと、イエスが晩餐の終了を告げます。このつづきはまた。

2017年10月18日水曜日

精一杯生きよ

まえのつづき。シモンは言います。
「幻? そうかも知れぬ。何の応えも返って来ないのはそのためだったかもしれぬ……」
 そうだよね。神なんてまぼろしだよねって思いきや、
「まだ分らぬか。応えがすでにあることを」「応えがすでにあると? おれは運動に挫折した男だ」「同じことだ。お前はここにいるではないか。それが応えだ。神の心とはそういうものだ」
 そう、もうすでに生かされてるんだってこと。ほかになにがいるのって。
 その命を大切にして精一杯生きよって、それが神の心の実践だって、そうイエスは言ってるんです。
そう思うと、イエスの死は、死ぬことじゃなくて、生きることだったんだなって、思えるんです。

ちがうかな?

2017年10月17日火曜日

神は幻にすぎぬ

昨日のところをすこし巻き戻します。
お前がガリラヤで闘ったことは少しも無益なことではない」と言うイエスに、シモンは「どうして無益でなかったと言えるのか?」と突っ込みます。ちょっと失礼して……
 「……そう言えるのは貴方が神の子、いや人の子だからか?」 「そうではない。神の子であれ、人の子であれ、神の心というものはこれだと言って示すことはできぬ。お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜しても見つかるまい。お前が希望を託した神は幻にすぎぬ」
 これって、すごい言葉でしょ。以前はわたしも神がどこかにいると思っていました。でも祈っても、かなえられるものとはかぎりません。いいえ、ほとんどかなえられないです。かみさま助けてくださいって祈っても、助けてもらえないことはちょっちゅうあります。神さまなんていない。そう思います。ほんとに。シモンもそう思ったでしょう。そう言うと、それはあなたの祈りが足りないからですとか、そのうち答えがありますとか言われるんですけど、しょうじき信じられません。
 でもイエスが(もちろん小説のなかですけど)「お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜しても見つかるまい」と言うのを聞くと、まるで自分に言われているように思えるんです。それどういうこと?って聞きたくなるんです。

2017年10月16日月曜日

それが応えだ

またはぐらかしでおわり? でもここは一度立ち止まって考えたいところです。
原爆で傷ついた方々はきっと「なぜ、自分が?」と問い続けておられるんじゃないでしょうか? でも簡単に傷が癒されるなんてことはないでしょう。
だれも「なぜ」という問いに答えてくれません。「しょうがなかった」なんていった大臣もいましたけど。でもイエスは「応えはすでにある」と言うんです。「お前はここにいるではないか。それが応えだ」と。これ、はぐらかしなんかじゃありません。ここには、たしかにそうだなって思わせるものがあります。どんなかたちであっても、いま生きているってとても素敵なこと
 とにかくいま生きている。イエスは「神の心とはそういうものだ」と言います。わたし、自分のことをふりかえってみて、そうだねって思うんです。
でもここでひとつ大切なことを飛ばしてしまいました。それはまた。

2017年10月15日日曜日

神の心

シモンの質問をはぐらかした?イエス。でも、ちゃんと聞いてます。
しばらくしてイエスは言います。
「シモン、お前がガリラヤで懸命に闘ったことは少しも無益なことではない。お前はそのとき神の心を直に実践していたのだ」
小説の第4章でシモンの過去がくわしく語られますけど、シモンはガリラヤで解放運動に参加して、奥さんまでなくしてさんざんな目にあったのです。それなのに、神は何もこたえてくれません。だからシモンは神に問いただしたいのです。かれは必死なんです。

イエスはそれを無視しているわけではありません。この後につづく二人の会話はとても重要です。それは日をあらためてまた。

2017年10月14日土曜日

人の子にすぎぬ

神の御心なぞ、おれたちが忖度できるものではないのだ」というイエスの答えに納得のゆかないシモンはまた問いかけます。
「師よ、貴方は神の子と呼ばれているではないか?」「いや、人の子にすぎぬ」「どう違うのだ?」「言ったとおりだ」
イエスは自分が「神の子」と呼ばれるのを否定して「人の子」と呼んでます。
日本人なら神と人はぜんぜん違うから不思議じゃないけど、ユダヤ人は人の子といえば神の子とほとんど同じみたい。これ受け売りですけど、聖書(もちろん日本語の)の最後に「用語解説」っていうのがあって、そこに「人の子」っていうのが、ちゃんとあります。なんて書いてあるかっていうと、「メシア(キリスト)を指す述語」で「イエス自身の呼び名」だそうです。
だからシモンにはイエスが言い換えただけに聞えたのです。神の子も人の子も同じ意味じゃないかって。そうただしているんです。でもイエスは「言ったとおりだ」なんて煙に巻いてます。つづきはまた。

2017年10月5日木曜日

熱心党のシモン

最後の晩餐の場面でおもしろいのは、熱心党のシモンの絡みです。
この人、れっきとした12弟子の一人。でもネームヴァリューが低くて、そんな弟子いたのって感じです。でもこの小説がおもしろいのは、そんなマイナーなひとがクローズアップされているところです。ちなみにこのひと、第4章ではほとんど主役です。ユダとふたりのダブルキャストで。
さてシモンはイエスにききます。長いセリフなので、短く要約します。
「おれはずっと運動に関わってきた。……だがそのために妻を喪った。そういうおれにユダは、『恨むなら神を恨め』と言ってくれた。だが神を恨んだところで、おれの罪が消えるわけでもないし、死んだ仲間たちが蘇るわけでもない。師よ、教えてくれ。神はおれたちの望み、ガリラヤ人の期待に、ほんとうに応えてくれるのか」
シモンにはとても切実な問いです。イエスはしばらくして答えます。
「シモン、おれにはお前が望むように答えてやることはできぬ。神の御心なぞ、おれたちが忖度(そんたく)できるものではないのだ」 
それを聞いてシモンはまた問います。つづきはまた。


2017年10月3日火曜日

ユダのために乾杯しよう

さて最後の晩餐はまだつづいています。
イエスは「今宵の祝宴を設けてくれたのはユダだ」と言って、「ユダのために乾杯しよう」と呼びかけます。この小説ならではのユダにたいする評価です。

でもこの乾杯にはイエスとユダだけの「暗黙の了解」が隠されています。だからこの乾杯は祝福というより、別れの盃みたいな意味もあるのです。それを知っているのは、ほかにはペトロだけです。奥さんのマリハムにも知らされてません。ちなみにマリハムはわたしたちがよく知っているマグダラのマリアのことです。

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...