2018年1月11日木曜日

とにかく師を信じましょう

 さてラザロが戻ってきました。かれは「マリアの家」(最後の晩餐が行なわれた旅館でマルコの家でもあります)で、マリアから聞いた話を伝えます。みんな、イエスが死刑宣告を受けたと聞いてびっくりします。しかも処刑がイエスの望みだったと聞いてショックを受けます。その意味がわからないのです。マリハム自身も知りません。マリハムはみんなを落ち着かせ、「詳しいことはいずれわかる時が来るでしょう。でもいまはその時ではないわ。とにかく師を信じましょう」と言って、アントニア城塞へと向います。
 11節はそこで終わり、12節に入ってゆきます。


2018年1月3日水曜日

マリハムの祈り


マリハムは、ラザロが帰ってくるまでの間、みんなでお祈りするように呼びかけます。先にマリハムが祈りを唱えると、みんながそれを復唱します。(引用では復唱ははぶきます)

   主よ あなたの名を呼ぶことをお許しください

われらの師イエスをお守りください

われらの師イエスをお救いください

われらの兄弟シモンをお守りください

われらをお導きください

主よ ここに集う一人一人のうえに 

   あなたの祝福がありますように

          ……アーメン

 このお祈りは、まえのペトロのお祈りと重なっているようです。

2018年1月1日月曜日

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さてベタニア村では、イエスの仲間たちが(多くは女性たちみたいです)マリハムとラザロの帰りを待っています。その晩イエスの晩餐に招待されたのはマリハムとラザロのふたりだけ。あとはお留守番です。かれらは、自分たちがイエスの晩餐に招待されなかったことがちょっと不満みたい。でも一晩中待っていても帰ってこないのでとても心配しています。

そして明け方になってようやくマリハムが帰ってきます。みんなが彼女のまわりを取り囲んで、矢継ぎ早に質問攻め。マリハムはちょっと休憩してから、イエスが逮捕されたことを伝えます。でも急いで来たためか、ラザロにもう一度、その後のことを確かめてくるように頼みます。そのあいだみんなでお祈りします。

 

2017年12月23日土曜日

ベタニア村

 ベタニア村はエルサレムの東方、神殿を見下ろす橄欖(オリーブ)山からは東南の方角にある小さな山村である。

 11節の書き出しです。イエスが十字架を背負ってゴルゴタへ向うまえに、作者はシーンをベタニアに移します。ベタニア村には「マルタの家」があります。この家が、イエスたちがエルサレムにいる間泊っていた「宿舎」です。

 ところでベタニアは聖書で有名なとマルタとマリヤの姉妹が住んでいるところです(作者は彼女たちが住んでいる場所を「宿舎」として描いています)。イエスのお世話をいっしょうけんめいにこなしているマルタが、なんにも手伝わずにイエスの話に聞き入っているマリアを不満に思って、イエスに告げ口すると、イエスがマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」とたしなめたあと、「しかし、必要なことはただ一つだけです」と諭す有名な場面があります。
 牧師さんは、ここで信仰第一って強調するところですけど、でもわたしはマルタがかわいそうな気がします。
 ヨハネの福音書ではラザロは姉妹の兄弟になってます。(11:1)あのドラマチックな復活で有名な人ですね。



2017年12月22日金曜日

いまはまだその時ではない


ペトロはみんながマリアの家を出たのを見届けた後、マリアとマルコにお礼を言います。するとマルコが自分もついていきたいと申し出ます。でもペトロは「いまはまだその時ではない」と断わります。若いマルコを巻き添えにしたくないというペトロの気づかいかもしれません。ペトロは微笑みを返して別れをつげると、あのアントニアの城塞の方角にむかって去ってゆくのです。

これで10節が終わります。

2017年12月17日日曜日

主よ

 みな急いでゴルゴタに向います。でも一緒になって行っては危険です。二人一組で出かけます。出かけるまえにペトロが祈ります。

主よ 師イエスの意志が貴方の意志であるように
その意志を成就させ給え
  主よ われらひとりひとりを護り給え
     艱難(かんなん)に耐え得る意志を与え給え
     われら、いかなるときも貴方により頼み
     貴方以外の神を拝さず
     兄弟姉妹ささえあい
     貴方の国の住人とさせ給え
  主よ ここに集うひとりひとりのうえに 
     貴方の祝福があらんことを

 教会でよく唱えた「主の祈り」と、礼拝の最後に牧師が唱える「祝祷」が合わさったような祈りです。でもこの緊迫したシーンではとても切実な思いが伝わってきます。

2017年12月12日火曜日

師の最期を見届けることだ

 さて前からのつづきです。ペトロは処刑されるのがイエスの望みだという理由をみんなに説明します。それは「人の子として「一粒の種」になるためだというのです。「人の子」も「一粒の種」も、すでにイエスから聞いたことがあるのですが、まさかそれが死ぬことだったなんて!しかも本当に処刑されようとしているんです。OMGです。
 でもペトロはふんばって最後まで説明します。一粒の種のたとえは、種がいつか成長するということ。「師が一粒の種なら、おれたちは何だ?」そう問いかけます。みんな事態が深刻なことにようやく気づきます。「おれたちにいまできることは何か」という問いにペトロは「師の最期を見届けることだ」とこたえます。つづきはまた。
 

2017年12月9日土曜日

処刑されるのは師の望みなのだ

 10節に入ります。
 ペトロが再びマルコの母が営む旅館にもどってきます。

先生のイエスがとんでもないことになっていることを知らない仲間の人たちは、まだ眠っています。イエスの妻のマリハムとラザロはベタニアにすでに帰ったところです。(ベタニアというのはイエスにしたがってガリラヤから出てきた人たちが泊っている宿舎があるところです。もう少しあとで、ベタニア村の説明がありますから、くわしいことはまたそのときね)
  ペトロがみんなを起こしてすぐに集まるように言います。
  みんなはイエスが逮捕されたうえに裁判にかけられ、おまけに処刑されると聞いて、びっくり!
  アンデレが「さっそく救い出しに行こう」と言うと、ペトロは引きとめます。そして重要な話を打ち明けるのです。「処刑されるのは師の望みなのだ」と。つづきはまた。

2017年12月8日金曜日

鶏の声


イエスの名前を呼んだあと、ペトロは膝を屈して泣きます。でもかれにはユダから託された使命があります。大勢の巡礼者たちが神殿をめざすのとは逆方向に、ペトロは神殿に背をむけて歩みはじめます。9節は、つぎのように締めくくられます。

ペトロは空を見上げた ――
  朝空に白雲がたなびいている。が、漁で鍛えたかれの目は、遠くに一点の黒雲があるのを見逃さなかった。かれは自分を奮い立たせるように神殿の階段を駆け降りると、仲間のもとに急いだ。その耳に、刻(とき)を告げる鶏の声が聴こえていた……
 
 聖書ではペトロが三度否認した後に聴こえてくる鶏の声が、小説ではここで聞えてきます。

2017年12月7日木曜日

師よ、師よ


神殿の外に押し出されたペトロは、まだ途方にくれています。そのペトロの目にうつった光景は…… 

 眼下に、昇ったばかりの朝陽をうけて白く輝くエルサレムの街が見える。その向うの丘陵に、いまは総督官邸となっているヘロデ宮殿が眩しく光っている。
 だが、ペトロの目にはそれも虚飾に満ちた光景でしかなかった。ペトロの心のなかに罪悪感がこみ上げて来た。かれは何度も「師よ、師よ」とつぶやいた。


  私たちが暮らしている都会の風景も、こんなふうに見えることがあるかもしれませんね。

2017年12月5日火曜日

頭の禿げた小男

 ぼうぜんと立ちつくすペトロに背後から声をかける人物があらわれます。「三十格好の、頭の禿げた小男」。誰だかわかりますか? その男がペトロに声をかけたあと、ペトロの腕をつかんで自分について来るように言います。ちょっと失礼して……

ちょうど神殿の開門の時刻だった。神殿の屋上から夜明けを告げる角笛(ショファル)の音が聴こえてきた……男は西門(コポニウス門)まで来ると、ペトロの背を突いて、かれを門外に押し出した。ペトロが振り返ると、男はくるりと背を向けて、何も言わずに去っていった。

この人、あのサウロです。ペトロとパウロの出会いが、こんなふうにさり気なく描かれているのがなかなかイイですね。
 
 

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...