2017年10月18日水曜日

精一杯生きよ

まえのつづき。シモンは言います。
「幻? そうかも知れぬ。何の応えも返って来ないのはそのためだったかもしれぬ……」
 そうだよね。神なんてまぼろしだよねって思いきや、
「まだ分らぬか。応えがすでにあることを」「応えがすでにあると? おれは運動に挫折した男だ」「同じことだ。お前はここにいるではないか。それが応えだ。神の心とはそういうものだ」
 そう、もうすでに生かされてるんだってこと。ほかになにがいるのって。
 その命を大切にして精一杯生きよって、それが神の心の実践だって、そうイエスは言ってるんです。
そう思うと、イエスの死は、死ぬことじゃなくて、生きることだったんだなって、思えるんです。

ちがうかな?

2017年10月17日火曜日

神は幻にすぎぬ

昨日のところをすこし巻き戻します。
お前がガリラヤで闘ったことは少しも無益なことではない」と言うイエスに、シモンは「どうして無益でなかったと言えるのか?」と突っ込みます。ちょっと失礼して……
 「……そう言えるのは貴方が神の子、いや人の子だからか?」 「そうではない。神の子であれ、人の子であれ、神の心というものはこれだと言って示すことはできぬ。お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜しても見つかるまい。お前が希望を託した神は幻にすぎぬ」
 これって、すごい言葉でしょ。以前はわたしも神がどこかにいると思っていました。でも祈っても、かなえられるものとはかぎりません。いいえ、ほとんどかなえられないです。かみさま助けてくださいって祈っても、助けてもらえないことはちょっちゅうあります。神さまなんていない。そう思います。ほんとに。シモンもそう思ったでしょう。そう言うと、それはあなたの祈りが足りないからですとか、そのうち答えがありますとか言われるんですけど、しょうじき信じられません。
 でもイエスが(もちろん小説のなかですけど)「お前は神を何処かにいるものと思っているようだが、そういう神ならどこを捜しても見つかるまい」と言うのを聞くと、まるで自分に言われているように思えるんです。それどういうこと?って聞きたくなるんです。

2017年10月16日月曜日

それが応えだ

またはぐらかしでおわり? でもここは一度立ち止まって考えたいところです。
原爆で傷ついた方々はきっと「なぜ、自分が?」と問い続けておられるんじゃないでしょうか? でも簡単に傷が癒されるなんてことはないでしょう。
だれも「なぜ」という問いに答えてくれません。「しょうがなかった」なんていった大臣もいましたけど。でもイエスは「応えはすでにある」と言うんです。「お前はここにいるではないか。それが応えだ」と。これ、はぐらかしなんかじゃありません。ここには、たしかにそうだなって思わせるものがあります。どんなかたちであっても、いま生きているってとても素敵なこと
 とにかくいま生きている。イエスは「神の心とはそういうものだ」と言います。わたし、自分のことをふりかえってみて、そうだねって思うんです。
でもここでひとつ大切なことを飛ばしてしまいました。それはまた。

2017年10月15日日曜日

神の心

シモンの質問をはぐらかした?イエス。でも、ちゃんと聞いてます。
しばらくしてイエスは言います。
「シモン、お前がガリラヤで懸命に闘ったことは少しも無益なことではない。お前はそのとき神の心を直に実践していたのだ」
小説の第4章でシモンの過去がくわしく語られますけど、シモンはガリラヤで解放運動に参加して、奥さんまでなくしてさんざんな目にあったのです。それなのに、神は何もこたえてくれません。だからシモンは神に問いただしたいのです。かれは必死なんです。

イエスはそれを無視しているわけではありません。この後につづく二人の会話はとても重要です。それは日をあらためてまた。

2017年10月14日土曜日

人の子にすぎぬ

神の御心なぞ、おれたちが忖度できるものではないのだ」というイエスの答えに納得のゆかないシモンはまた問いかけます。
「師よ、貴方は神の子と呼ばれているではないか?」「いや、人の子にすぎぬ」「どう違うのだ?」「言ったとおりだ」
イエスは自分が「神の子」と呼ばれるのを否定して「人の子」と呼んでます。
日本人なら神と人はぜんぜん違うから不思議じゃないけど、ユダヤ人は人の子といえば神の子とほとんど同じみたい。これ受け売りですけど、聖書(もちろん日本語の)の最後に「用語解説」っていうのがあって、そこに「人の子」っていうのが、ちゃんとあります。なんて書いてあるかっていうと、「メシア(キリスト)を指す述語」で「イエス自身の呼び名」だそうです。
だからシモンにはイエスが言い換えただけに聞えたのです。神の子も人の子も同じ意味じゃないかって。そうただしているんです。でもイエスは「言ったとおりだ」なんて煙に巻いてます。つづきはまた。

2017年10月5日木曜日

熱心党のシモン

最後の晩餐の場面でおもしろいのは、熱心党のシモンの絡みです。
この人、れっきとした12弟子の一人。でもネームヴァリューが低くて、そんな弟子いたのって感じです。でもこの小説がおもしろいのは、そんなマイナーなひとがクローズアップされているところです。ちなみにこのひと、第4章ではほとんど主役です。ユダとふたりのダブルキャストで。
さてシモンはイエスにききます。長いセリフなので、短く要約します。
「おれはずっと運動に関わってきた。……だがそのために妻を喪った。そういうおれにユダは、『恨むなら神を恨め』と言ってくれた。だが神を恨んだところで、おれの罪が消えるわけでもないし、死んだ仲間たちが蘇るわけでもない。師よ、教えてくれ。神はおれたちの望み、ガリラヤ人の期待に、ほんとうに応えてくれるのか」
シモンにはとても切実な問いです。イエスはしばらくして答えます。
「シモン、おれにはお前が望むように答えてやることはできぬ。神の御心なぞ、おれたちが忖度(そんたく)できるものではないのだ」 
それを聞いてシモンはまた問います。つづきはまた。


2017年10月3日火曜日

ユダのために乾杯しよう

さて最後の晩餐はまだつづいています。
イエスは「今宵の祝宴を設けてくれたのはユダだ」と言って、「ユダのために乾杯しよう」と呼びかけます。この小説ならではのユダにたいする評価です。

でもこの乾杯にはイエスとユダだけの「暗黙の了解」が隠されています。だからこの乾杯は祝福というより、別れの盃みたいな意味もあるのです。それを知っているのは、ほかにはペトロだけです。奥さんのマリハムにも知らされてません。ちなみにマリハムはわたしたちがよく知っているマグダラのマリアのことです。

2017年9月27日水曜日

主の祈り 2

このあと、イエスが唱えた祈りに対する反応が描写されます。ちょっと失礼して……
イエスが人前で祈るのを見て、みな驚いた。さらにそれが正式な祈り(カディシュ)の言葉から逸脱していることも、みなを驚かせた。ことに神に対する冒頭の呼びかけが親しみを込めた「父(アバ)よ」で始まったことは意外であった。それでもみな「アーメン」と唱和した。

教会ではあたりまえに唱えられている「主の祈り」ですけど、それはカディシュというユダヤ教の祈りを基して、それをアレンジしたものなのでしょうね。

2017年9月24日日曜日

主の祈り 1

父母に連れられて教会に通っていたころ、礼拝の中で毎週「主の祈り」を唱えました。いまでも諳んじて言うことができます。
まえの回で引用したイエスの祈りは、それとだいたいは同じですけど、ちがってもいます。
まず「天」というのがありません。「天にまします」とか「天になるごとく」とかいうのが抜けてます。
それから「われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」というのがありません。そのかわりでしょうか、「負債を赦し給え」となってます。罪はかみさまに対する負債ですけど、小説で言われているのはもっとリアルなことかもしれません。借金とか。
それから「われらを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ」というのが簡単に「悪より護り給え」となっています。これもリアルな意味で言ってるんじゃないでしょうか? たとえばローマとか神殿の権力が対象になってるんじゃないかな? 
そして最後に「国と力と栄とはなんじのものなればなり」という結びの言葉も抜けています。ですから生活に直接結びついた祈りになってます。いまの「主の祈り」とくらべるととてもシンプルです。

いまの「主の祈り」は後からいろいろと飾りをつけたものでしょうね、きっと。


2017年9月23日土曜日

最後の晩餐

6節に入ります。「最後の晩餐」で有名な場面です。でもそこに集まっているのは12弟子ではなくて、10人ほどです。そのなかにはイエスの妻マリハムも入ってます。ほかにあのラザロも呼ばれています。
マルコはこのときイエスを間近で見ます。ちょっと失礼して……
かれはそのとき初めてイエスを間近で見た。イエスはいくぶん緊張しているように見えた。日焼けした肌には艶があった。髭は延(ママ)びていたが、それがかえって容貌に風格を与えていた。
イエスのイメージといえば、長髪で髭をたくわえた顔。竹内さんが描くイメージもそのようなものでしょうか。でももうすこし詳しい描写で、マルコから見たイエスを描いてほしかったな。
それはともかく、イエスは食前の祈りをします。
「父(アバ)よ、願わくは御名(みな)を崇めさせ給え、御国を来らせ給え、御心(みこころ)を行なわせ給え、日々の糧を与え給え、負債を赦し給え、悪より護り給え……」

これは教会では「主の祈り」と言われてます。私も教会でよく唱えました。でもちょっとちがうんです。でも長くなりそうですから、またこのつぎにします。

2017年9月19日火曜日

ユダの使命

そういうわけで、イエスの策略を成就させることができるのはユダだけです。
ユダは、それがじぶんの「使命」だと思ってます。
それにイエスが死んだ後のことも考えなければなりません。
そこでユダは、イエスの遺志をうけつぐ人たちが「組織」をつくることを考えます。
面白いのは、ユダは組織を作る人たちに自分を加えていないことです。
ここでユダが考えているのは、いつかできる「組織」を想定して、それをあらかじめ守ろうということなんです。ユダは先のことまで心配しているんです。
そのためにユダは神殿に出向いて交渉してきたんです。ちょっと失礼して……
「そうだ。師が捕まれば、おれたちにたいする官憲の追及は免れない。だがおれたちが散り散りになってしまえば、だれが師の遺志を引き継ぐのだ? これまでのように師に随っているだけでは済まなくなる。これからはもっと結束を固めなければ立ち行かなくなるだろう。だから組織が必要なのだ。組織をつくって官憲の追及から守られるような方策を立てていくことが必要なのだ。……その手始めに、やつらと交渉する必要があったのだ」 
 福音書はどれもイエスの死を「受難」として描いてますけど、当時イエスは熱心党との関係が疑われる要注意人物。そのリーダーが処刑されたのですから、かれの仲間たちはいまでいえば「共謀罪」で捕まる恐れがあったはずです。リーダーを処刑したからといって、それで官憲が手をゆるめるとは思えません。だからユダが、イエスが死んだあとの仲間の安全を考えたのはとてもリアルなことに思えます。ユダはそのために「先手」を打ったんです。ユダってすごい!

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...