2017年9月18日月曜日

ペトロは頭を抱えた


さて、ユダから「それでは事は成らぬのだ」と言われたペトロですが、じつはペトロも考えていたのです。カッコ書きで、ペトロの心理が書かれてます。
(それでは事は成らぬ ―― そうだ、そういうことだ、おれが予感していたことは……)
ペトロは何もわかっていなかったのではありません。その前のところで「ペトロはすでに気づいてもいたのである」と書かれてます。
でもペトロにはイエスの策略を成就させるなんてことはとてもできません。
わたしだってムリ。恐ろしすぎ。
ユダから「師が死んで、お前が生きるのだ」と言われたとき、
ペトロは頭を抱えた。 
その気持ちはよくわかります。


2017年9月11日月曜日

人の子

イエスは後のことはなにも告げずに死んでゆきました。
でもキー・ワードをのこしてゆきました。
それが「人の子」です。
ユダはペトロと話し合う場面でこう言ってます。
「師は苦杯の底の底まで飲み干す、人の子として犠牲になる覚悟で、死ななければ生まれるものも生まれないのだ」
でも「人の子」って?
もう少しあとの方で、熱心党のシモンがイエスに絡んで、「貴方は神の子と呼ばれているではないか?と言うと、イエスが「いや、人の子にすぎぬ」と答えます。
でも「どう違うのだ?」って聞き返すと、「言ったとおりだ」と答えるのです。
これって???ですね。
これはまた考えることにします。


2017年9月10日日曜日

大きな力

ユダが言う「事は成らぬ」の「事」って、なんのことでしょう?
それは「イエスの策略」を実現させることです。
イエスの策略とは、じぶんが死んで、そのあとをペトロたちに託すことです。
でもイエスはユダやペトロに後のことは何も伝えてません。
ふつうなら遺言をのこすでしょうけど、イエスは何ものこしてません。
つぎのことをフリーハンドで託したのです。

これっていいかげん? それとも信頼? 
わたしはゆだねるってことではないかと思います。
イエスはじぶんを一粒の麦にたとえます。
それを育てるのはたしかに農夫だけど、太陽や水はあげられません。

きっと大きな力にゆだねたんじゃないかしら……


2017年9月6日水曜日

それでは事は成らぬのだ!

さてユダはペトロを前にして、あの計画を打ち明けます。といっても、大変な計画ですから、ユダはじっくり話を進めます。でもここではちょっと端折って、肝心なところにゆきます。
「そうだ、シモン。師が考えていることは、何かを壊すことではなく、神の国を建設することだ。これまでに現れた者たちが考えて来たようなものではなく、これまで誰も考えなかったような突拍子もないことを考えているのだ」
話はいよいよ重要なところに入ってゆきます。師であるイエスが死を覚悟していることが、ユダの口から明らかにされます。するとペトロは言います。
「とんでもないことだ。師を失ってしまえば、おれたちはどうなる? 頭石(かしら)を失った家と同じではないか。それだけは何としても阻止しなければならぬ」
ペトロにはまだユダの言っている意味がわかってません。「ばかなことを言うな。死んで生きるだと?」と反論します。ここでユダは重要な決めぜりふを口にします。
「それでは事は成らぬのだ!」
きょうはこのくらいにします。


2017年9月4日月曜日

5節に入ります。
ユダはお勤め中のペトロのところに来て、「お前に話があるのだ」と声をかけます。
ユダが誘った先はユダの「隠れ家」です。アクラとよばれる貧民窟(スラム)、そこにユダの「隠れ家」があります。真っ暗がりの部屋で待たされたペトロが夢をみます。ちょっと失礼して……
ガリラヤの湖で仲間と漁をしている夢をみた。網に掛った魚が銀鱗をきらきらと輝かせていた。仲間たちは大漁に沸いていた。一人が歌い出すと、みなが声をあげて歌った。ペトロも歌った。すると遠くに「師」の姿が見えた。ペトロは「師」の方に向って歩いていった。
聖書に親しんでいる方なら、すぐに思い浮かぶんじゃないかですか? イエスの水上歩行といわれる奇跡です。聖書では、疑いをもったペトロが溺れるところです。でもここではちょっと違ってます。
すると突然、「師」の背後から光が射した……
ここで現実にもどるんです。イエスの背後から射した光は、じつはユダが扉を開けて入ってきたときに、部屋に射しこんだ光でした。

作者はここでイエスとユダをオーバーラップさせているんじゃないでしょうか? コントラストが見事な演出ですね。


2017年8月31日木曜日

運命の巡り合わせ

ユダはこんなふうに感じています。ちょっと失礼して……
ユダは窓に目をやった。アーチ型に切り取られた大窓の向うに、晴れ渡った午後の空が広がっているのが見えた。だがユダは自分が牢獄に繋がれた囚人のように思えた。いや囚人のほうがまだましだった。自分にはその良心さえ見出せなかった。この神の宮で愚かにも、怖しい密談をしていたのだと思うと、なさけない気がした……
でもユダは大仕事をしたのではないの? 胸を張るってわけにはゆかなくても、イエスと仲間のためにがんばったはずでしょ。でもこの節のはじめのところで「いま自分がここにいることが、自分の意思ではなく、何者かの意思によってすでに決定されているような、そんな運命の巡り合わせを感じるのであった……」と書いてあって、なにかフクザツなものを感じさせます。

歴史のなかでは、大物に仕える人が身をささげて自分を滅ぼしていくということがありますよね。

ユダはそんな歴史に埋もれた名もない人たちの代表かもしれない。
でも名前は残りました。でも悪名なのが気の毒。作者はこの小説でユダの名誉回復をはかったのかもしれませんね。


2017年8月28日月曜日

ユダの狂言

ユダはいよいよ審問官との間で「取引」を提案します。
審問官は書記官を退出させて、1対1で向かい合います。
おれはあんたたちの望みをかなえてやるためにここへ来たのだ
こんなふうに切り出したユダは、
イエスさえ始末すれば、やつに群がる連中は泡のように消えてしまうだろう。
そううそぶきます。そして……
万が一、やつの始末がついた後に、やつの追随者たちが反乱でも起こしそうな気配が見えたら、その時はまたおれが真っ先にここへ来よう
そう言って、審問官をすっかりだましてしまうのです。
もちろんユダの狂言ですよ。聖書ではほんとうみたいに書かれてますけど。
ユダは金でイエスを売ったのではありません。売ったふりをして、
イエスの望みをかなえ、あとに残る者たちが逮捕されたりしないようにしたのです。

 でもユダには大仕事をしたことの満足感はありません。
そのあたりのユダの気持ちがこの後書かれます。それはまた。

2017年8月24日木曜日

審問官

二人の男がユダを迎えた。一人は審問官、もう一人は書記官であることをユダに告げた。審問官は三十歳くらいの頭が禿げかかった片目が斜視の小男で、書記官は控え目で律義そうな男であった。
この人物紹介、とくに審問官は、じつは重要人物です。だれかわかりますか? 今度のテストに出るかも……
それはともかく、ユダは時間をかけて審問官とやりとりします。
審問官はイエスの行動を批判して、そんなことをして喜ぶのはヘロデ(ユダヤ側の支配者)やローマのほうではないかと言ってユダを諭します。
たしかに言えてるところはあるけど、ユダは心の中で反発します。
だがそういう理屈で人々を支配するかれらの性根は穢いと思われた。人々から搾りとった貢税で自分たちの懐を肥やしておきながら、人々を見下すことが許せなかった。
 でもユダは抗議するためにここに来ているのではないことを肝に銘じています。
 それで心の中とは真逆のことを口に出すのです。
おれがここに来たのはあの男の疑いを晴らすためではない。

 きょうはここまでにします。


2017年8月23日水曜日

サンヘドリン

4節です。
その日 ―― 過越祭を控えたある日 ―― ユダは、神殿内にあるサンヘドリン(最高法院)に出向いた。
いよいよユダは神殿に乗り込んでゆきます。サンヘドリンはユダヤの国会や最高裁のようなところなんでしょう。権力と権威の中枢。
神殿といえば、現在では「嘆きの門」を残すくらい。でも、いろんな史料でおおよその復元はできるんでしょうね。作者はそういうのを参考にしながら神殿内の様子を描写しているのかな?
神殿の地階に議場とか役所みたいところがあります。その「奥の小部屋」にユダは案内されます。
部屋はこれといった調度もなく、中央に方形の卓子があって、その卓子を挟んで椅子が二脚ずつ置かれていた 
きょうはここまでにします。

2017年8月21日月曜日

イエスの策略

ユダがイエスに希望を託したのは、さきにイエスにある「策略」があったから。
この節ではまだその中身は書かれてないけど、イエスは命とひきかえに何かとてつもないことを考えていたみたい。それをいちはやく察知したのがユダ。それでユダは、イエスの策略を成就させるために、一役かったっということね。
それともうひとつは、イエスの死後に組織をつくるための準備をすること。イエス一人の意志だけが遂げられ、組織が守られること ―― それが、ユダが自分に課した使命であった。
ユダは裏切り者なんかじゃないのね。
こうしてユダは単身(ひとり)秘密裏に神殿側と接触することにしたのである。
ユダは神殿に乗り込んでいきます。 これで3節がおわります。


2017年8月20日日曜日

カリオテのユダ

ユダはふつうはイスカリオテのユダと呼ばれますが、小説では「カリオテのユダ」となっています。イス(イーシュ)は男性を意味するそうで、カリオテは地名ですから、イスカリオテは「カリオテ出身の男」の意味みたい。それでイスを省いて、カリオテのユダになってるんですね。カリオテはユダヤ地域の村の名だそうで、たしかに小説でもユダは「よそ者」になってます。

ユダは熱心党のシモンとも親しく(第4章では二人の緊密な関係がえがかれます ―― ご期待ください)、ガリラヤ地方の反ローマ活動にかかわっていました。そんな二人がイエスの仲間に入っているのですから、神殿派はイエスを危険人物とみなします。だからあの神殿で起こった事件をイエスの仕業にしようと企んでるんです。

でもユダがイエスに近づいたのは、反ローマ運動にイエスを引きずりこむためでないんです。ユダにはこんな思いがありました。ちょっと失礼して……

結局、神殿体制を壊したところで、それがローマを利することは明らかであった。第一、ローマとの繋がりで強固に護られた神殿体制が容易に崩せるはずもなかった。 ―― それこそ今度の事件が如実に示したことである ―― いや、そういう見通しがあればこそ、ユダはイエスにある希望を託したのであった。  
どんな希望だったのか、このつづきでね。

第2章について

  『マルコによれば』第2章について書いてきました。ここでちょっとこの章について感想を述べてみます。  本章は時系列からいうと第1章(プロローグ)の前に位置します。第1章はイエスの「 公生涯 」に沿った物語展開でした。本章はその前史で、作者が想像的に描いたものですが、イエスがキリ...